「やってもいい人」 1

私はアシュリー事件と出会ったころ、
何も知らない世間知らずのオバサンだった。
(今でも「何も知らない世間知らずのおばあさん」になっただけだけど)

それで、アシュリー事件を知り、頭から離れないものだから、
その数ヶ月前にたまたま知人を介して知り合った某大学の先生と、
毎日のように事件のことをメールでやりとりしていたのだけど、

そしたら、私自身はまったく知らないうちに
その先生の論文に私が「情報提供」したことになっていて、
びっくりしたことがある。

ブログを立ち上げた時に報告したメールへのお返事に
「アシュリー事件については私も論文を書きました」と書いてあって、
それで初めて知った。

めちゃくちゃビックリした。ぜんぜん知らなかった。

私はもちろん「読ませてください」と書いた。

それにしても、
事件で果たして何があったのか、これからどう展開していくのか、
まだ事態は大きくうねりながら推移している段階だった。
そんな段階で、論文って、書くものなの……?

(その後、これはどうやら学者にとって「オイシイ事件」らしい、
だから、いち早く書いてツバをつけ「自分のもの」にしたい方々が
たくさんおられるのだな、と体験的に気づいた)

数日後に届いた論文を見て、またびっくりした。
論文が出てから、もう2ヶ月も経っていたから。

あれだけ、この事件のことを語り合ってきたのに、
論文が出て2ヶ月もの間、私は知らせてもらえなかったってこと……?

読んで、またまたビックリした。

まるごと私がお送りした情報で構成された論文だったし、箇所によっては、
私が全訳してお送りしたり、概要をとりまとめてお送りしたものが、
ちょっと手を入れて「使われて」もいたから。

そして、ムカついたのは、
私が「情報提供」をしたことになっていた点。

私は無邪気に、先生と個人的にアシュリー事件について語り合っていただけだった。
そんなこと、一言も聞いていない。

それに、本当に私から情報提供を受けた、とお考えなのであれば、
論文が出た時に送ってくださるのが仁義というものだろう、とも思った。

もう一つは、誤訳。

大学院生にでも頼んで訳させたのかな、と思うような、
まるで文脈が読み取れていない誤訳が目に付いて、不愉快だった。

実際に私が訳したものを「使って」おられる箇所もあるのだから
私から「情報提供」を受けたとおっしゃるなら、
使いたい他の引用箇所の翻訳だって私に頼めばよかっただろうに。

以後、当たり前のことながら、その先生との間は疎遠となった。


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似たようなことは、この10年間に何度もあった。

そして、あの先生は、「情報提供」をしてもらったと断ってくれただけ、
はるかに正直でまともな人だった。

時々、誰かが「ここで児玉さん、引用してもらっているよ」と
論文なり本なり講演なりを教えてくださる。

多くの方が、そういう時
「学者や研究者に素人の児玉さんの仕事が引用してもらうなんて、すごいね」
というトーンで、教えてくださる。

でも、そんなふうに知らせてもらったものを読んだり聞いたりしてみると、
たちまち衝撃を受けることがある。時には全身で凍りつくこともある。

それは決して、教えてくれた人が言うような「引用」ではないから。

自分が何を書いてきたかは自分でちゃんと知っているから、
読めば(聞けば)、どれだけを「持っていかれたか」は分かる。

もちろん、ブログについて言えば、
媒体そのものが情報提供ツールなのだから、
情報を使われることそのものに、さほどムカつくわけじゃない。

ブログについて言えば、
基本的には、使ってくださればいいと思う。

ただ、いつも、とてつもなく悲しいのは、
誰かが、その人なりに時間とエネルギーと情熱を注いで懸命にやった、
他人の仕事に対するリスペクトというものはないのか、ということ。

相手が学者だったら、わずかな参照でも丁寧に出典を挙げるところで、
それ以上に大量の情報を持っていった相手が地位も肩書きもない人間であれば、
そういうリスペクトの行為をぺろりと舌を出してネグり、
自前の情報のように平然と装っておられる。

さすがに後ろめたいのか、さも瑣末な情報だけを参照したかのように
カタチだけ小さな(時には本題とまるで無関係な)「引用」をしてみせることでお茶を濁し、
口をぬぐって知らん顔を決め込んでおられる方もある。

もちろん、ご本人は否定されるだろう。
ちょっと「情報」を参照させてもらっただけだと、言われるのだろう。

学者は情報を集めているのではなく、
洞察や思索をしているのだ、一緒にするな、と言われることだろう。

じゃぁ、私の書くものには洞察も思索もないのだろうか。

その方々が私の書いたもので読まれる「情報」だって、
私の洞察に沿って追いかけられ、拾われ、
私の問題意識によって整理されたものではないのだろうか。

私が継続的に情報や事件を追いかけながら書いてきたものを読むことで、
本当はそこに問題があるということや、その問題のあり方に気づかれている。
持っていったのは、本当は決して、ただの「情報」じゃない。

でも、地位と権威に隠れて、そういう人たちは絶対にそのことを認めないだろうし、
また、強い側のみんなにとって、その方が都合がよければ、
みんなで「そういうこと」にして、それで通っていく。

でも、誰かを、所詮は弱い相手だと侮り、
「どうせ無名の素人」だから「やってもいい人」と認定し、
他の相手なら当たり前に払うはずのリスペクトをそこでは引っ込める、というのは、

それは、「アシュリー療法」の論理と同じじゃないか。

程度の大小カタチ様々な体験をくり返すたびに苦しむのは、
パクられたことに感じる不愉快なんて比べ物にならないほど、
侮られ、「やってもいい人」にされ、つまりは
人としての尊厳を侵害された、ということの痛み。

しかも、それを、障害学や社会学生命倫理学の領域で、
弱い者を守るために、弱い者の側に立ってものを言い、仕事をしておられるはずの
学者や研究者が平然とやられる。

そのことに深く傷つき、絶望する。


「やってもいい人」 2に続きます。