アマゾンの内容紹介
日本障害者協議会代表で、きょうされん専務理事の藤井克徳さんが
ナチスの障害者虐殺と優生思想について、写真や注釈をたくさん盛り込んで
中学生高校生向けにわかりやすく、とはいえ内容や表現を値引きすることなく書かれた本。
ナチスの障害者虐殺と優生思想について、写真や注釈をたくさん盛り込んで
中学生高校生向けにわかりやすく、とはいえ内容や表現を値引きすることなく書かれた本。
2015年11月に放送されたNHKのETV特集
「それはホロコーストの'リハーサル'だった ~障害者虐殺70年目の真実~」は、
藤井さんが2003年にドイツで戦前に作られた盲人のための共同作業所跡を訪れ、
その作業所を作ったオットー・ヴァイトについて知ったことから
人がつながり、時間をかけて丁寧に作られたものだった。
「それはホロコーストの'リハーサル'だった ~障害者虐殺70年目の真実~」は、
藤井さんが2003年にドイツで戦前に作られた盲人のための共同作業所跡を訪れ、
その作業所を作ったオットー・ヴァイトについて知ったことから
人がつながり、時間をかけて丁寧に作られたものだった。
まず何があったか事実をきちんと「知る」こと、
それに対してどのように考えたらよいのかを藤井さんの思いをガイドに模索することで
「分かる」ことへと繋げていきながら、読者は揺さぶられ、深い体験をすることになるだろう。
それに対してどのように考えたらよいのかを藤井さんの思いをガイドに模索することで
「分かる」ことへと繋げていきながら、読者は揺さぶられ、深い体験をすることになるだろう。
私は、
「やまゆり園事件」に関する以下の個所で、ほとんど精神的な棒立ちとなった。
ここを読んだ後、本から目を離して、しばらく呆然とした。
「やまゆり園事件」に関する以下の個所で、ほとんど精神的な棒立ちとなった。
ここを読んだ後、本から目を離して、しばらく呆然とした。
藤井さんは2016年7月26日の事件について知った時に
ナチスの優生思想に基づく障害者の虐殺を連想した、という。
事件について捉えるにあたってはポイントが2つある、
それは「障害ゆえに見られる特別の現象」と
「現代日本にはびこる社会の歪み」だという。
ナチスの優生思想に基づく障害者の虐殺を連想した、という。
事件について捉えるにあたってはポイントが2つある、
それは「障害ゆえに見られる特別の現象」と
「現代日本にはびこる社会の歪み」だという。
その「障害ゆえの現象」の小見出しで131ページに書かれているのは以下。
一つ目から考えてみましょう。以下に掲げる事がらは、もし障害がなければあり得ないことだと思います。事件を通して表面に浮かび上がった事柄です。
まず多くの人が疑問に思ったのは、大型の入所施設の存在ではないでしょうか。やまゆり園には150人近い障害者が住んでいました。こうした入所施設は、やまゆり園以外にもたくさん存在します。
大勢の大人が集まって、しかも長期に暮らすというのはどうみても不自然です。ノーマライゼーションの理念ともかけ離れます。北欧を中心に先進国の多くが、こうした入所施設の縮小もしくは廃止の方向を打ち出しています。そればかりではありません。もし多人数での生活様式でなかったら、あのような短時間のうちの大量虐殺には至らなかったのでは……、ついそんなふうにも考えてしまいます。
(p.131)
まず多くの人が疑問に思ったのは、大型の入所施設の存在ではないでしょうか。やまゆり園には150人近い障害者が住んでいました。こうした入所施設は、やまゆり園以外にもたくさん存在します。
大勢の大人が集まって、しかも長期に暮らすというのはどうみても不自然です。ノーマライゼーションの理念ともかけ離れます。北欧を中心に先進国の多くが、こうした入所施設の縮小もしくは廃止の方向を打ち出しています。そればかりではありません。もし多人数での生活様式でなかったら、あのような短時間のうちの大量虐殺には至らなかったのでは……、ついそんなふうにも考えてしまいます。
(p.131)
ここまで読んで、
表現には配慮されているけど、そうか、やはり藤井さんもそこで止まるのか……と思った。
表現には配慮されているけど、そうか、やはり藤井さんもそこで止まるのか……と思った。
やっぱり溝は深いなぁ……と、気持ちが沈んだ。
優生思想や社会の差別に対しては同じ方向を向けても、
ここの一点にくると、溝の深さを思い知らされるなぁ、と。
ここの一点にくると、溝の深さを思い知らされるなぁ、と。
精神的な棒立ち状態になったのは、
重い気持ちになりつつページをめくった次の瞬間。
重い気持ちになりつつページをめくった次の瞬間。
しかし、問題はそう単純ではありません。もし、やまゆり園のような生活施設が消滅したとしたら、障害者にとって譲ることのできない、「安心」がたちどころに奪われてしまいます。家族への心身の負担も一気に押し寄せます。入所施設に頼らざるを得ない背景に、地域で暮らすための支援策の貧しさや家族にのしかかる負担があることを忘れてはなりません。この問題は、「安心」というキーワード抜きには考えられないのです。
(p.132)
(p.132)
131ページでは「入所施設」だった表現が、
132ページでは「生活施設」となっている。
132ページでは「生活施設」となっている。
この箇所に次いで、さらに匿名報道の問題が取り上げられている。
警察が実名を明かさなかった理由を遺族の意向としたことが説明された後、
以下のように書かれている。
警察が実名を明かさなかった理由を遺族の意向としたことが説明された後、
以下のように書かれている。
ただ、ここでも遺族を一方的に責めることはできません。「なぜ一般市民と同じように実名報道にしないのか」という疑問と、氏名を伏せざるを得ない背景とを同時にとらえる必要があります。このぶつかり合う2つの論点を一体化して深めるなかに、問題の本質とあるべき方向性が見えてくるのではないでしょうか。
(p.132)
(p.132)
ぶつかり合う2つの論点を一体化して深める……。
藤井さん自身の中に、障害者が施設に入れられることや、
匿名にされてしまうことへの怒りや悲しみがないわけはない。
匿名にされてしまうことへの怒りや悲しみがないわけはない。
その意味では、
131ページに書かれた立場に立ってしまいたい思いだって、
胸の内にはどんなにか強くあるはずだと思う。
131ページに書かれた立場に立ってしまいたい思いだって、
胸の内にはどんなにか強くあるはずだと思う。
「ぶつかり合う2つの論点を一体化して深める」という、より困難だけど新たな可能性は、
それでもなお痛みを伴う多大な努力によって「向こう側」の立場へと想像力を投じ、
苦しく深い思索を経て初めて到達されたものだ。
それでもなお痛みを伴う多大な努力によって「向こう側」の立場へと想像力を投じ、
苦しく深い思索を経て初めて到達されたものだ。
ただただ、頭が下がる。
大きな人だ。