『決められない患者たち』

『決められない患者たち』
Jerome Groopman & Pamela Hatzband著 堀内志奈訳 医学書院 2013


著者2人は夫婦で、ともに30年以上医療に携わってきた医師。

患者が医療をめぐる意思決定でどのような心理的なプロセスをたどるのか、
そこには患者のどのような人生体験や考え方が関わっているのかを探るため、
夫婦は「家族歴」と「既往歴」のみならず「社会歴」にも注目し、
長い時間をかけて多くの患者に詳細な聞き取りを行うことにした。
患者の職業や生活歴は多様。

詳細に記述されていくのは、
まず、高コレステロール、軽度の高血圧、バセドウ病の治療での、ごく一般的な意思決定の事例。
次に、整形外科での手術を受けるかどうか、心臓病や癌の治療の選択をどうするか。
そして最後に終末期の治療の選択が、代理決定の問題も含め、丁寧に叙述される事例に沿って考察される。

著者らが患者の志向性を考察する際のキーワードは
「最大主義者と最小主義者」「信じる者と疑う者」「自然主義志向と技術志向」。

書かれていることや著者らの主張は、取り立てて目新しいものでもないのだけれど、
医師がこのように膨大な時間を割いて多様な患者たちの意思決定の体験に耳を傾け、
そこから患者を適切にガイドできる医師のあるべき態度を見出そうとする姿勢そのものが、
その「あるべき態度」でもあろうということ、

それからそんな医師であるからこそ出てくる、
そうした医師と患者の丁寧な共同作業としての意思決定を許さない医療システムへの批判が
本書の大きな魅力になっているように感じた。


医師が情報を提供する方法にもバイアスが潜んでいる(「投影バイアス」)が、
情報がより正確に分かりやすく提供されることによって、
患者個々の志向の違いが際立って引き出されるとの研究結果(カナダの研究。P. 80-81)は面白い。

また著者らは標準治療を推奨するとされるガイドラインにも、
研究の限界や利益相反を含めた様々な「主観」が含まれていることを、紙面を割いて指摘し(p.85-88)、
ガイドラインに従って治療の標準化を図る保健政策担当者や保険会社の側には
パターナリズム(父権主義)が透けて見える」と書く。
2010年のミシガン大学の調査では、高コレステロール値を受けて薬を介するにあたって
自分の考えを医師に聞かれた患者は半数のみだったという(p.88)

また、医師は通常、患者の意向を聞き出し、どうしたいかを考えさせるガイド役を務める方法を
医学教育の中で学んでいない。

患者側の心理も非常に複雑だ。
意思決定について幅広い研究を行ってきたカーネギー・メロン大のジョージ・ローウェスタインが、
痛みがあったり不安や怒りがある「ホット」な状態では、
とにかく早く問題を解決してくれるであろう選択肢を選び、繋態選択をしがちであり、
肉体がより快適な状態にある「コールド」「クールダウン」な時の決断が
より深く、慎重に考えられたものだという(p. 103)

また患者は医師との関係で弱い立場にも置かれる。

……力の均衡がある場合、つまり医師が特殊な知識と能力を持った権威者として存在するのに対して、患者は問題を解決するために専門的な助けを必要としている、という力関係がある状況で……。多くのひとは自分が「面倒な」患者と思われたくないと思い、医師の考えに異議を唱えたり、忠告に逆らって医師との関係が悪くなるのを恐れる。(p. 108)


そのために、日ごろは強い意志を持ち、きっぱりと自己主張をする人なのに、
医師が頑強に進める手術をイヤだと言えずに受けてしまって、後悔している事例が紹介されている。

 最も望ましいプロセスは、医師と患者の間の「共有された意思決定」と呼ばれる。治療の選択肢のリスクと利益の情報を一緒に吟味した後、患者の気持ちと志向に合わせて治療をカスタマイズする、ということだ。自分の意向を理解した主治医とともに考え決断をするということは、決断の重荷を分かち合い、自分が将来後悔するリスクを減らすことを意味するのだ。(p.114)


そのうえで、この本で目を引かれた指摘の一つは、
は患者の権利ではあるけれど、実際には人によって自分がどの程度コントロールしたいかも違うということ。

乳がんのカナダ人女性への調査で、治療法を自分で決めることを望んだのは22%、
主治医と相談して決めたい人が44%、主治医に決断を委ねたい人が34%(p. 168)だった。

 カール・シュナイダーは著書『自立性の行使』で、私たちの文化圏では、病気にかかったとき全ての局面で本人が自立性をみせないことそれすなわち悪、とするかのような行き過ぎた風潮が時にみられる、と指摘している。私たちも彼に同感である。私たちが考える真の自主性とは、自分がコントロールする範囲を自ら決めることにある。(p.185)


ここの指摘には、ちょっと意表を突かれる感じがあり面白いと思うのだけれど、
これを医師の側から患者側に向かって言われると、
問題そのものがすり替えられる感じがしないでもない。
考えてみたい。

意思決定の問題ではどうしても避けて通れない医療の不確実性について、やはり何度も言及されている。

私がこの本で一番興味深いと感じたことの一つは、
著者らが認知科学の「自然主義バイアス」「損失嫌悪」「無為バイアス」「フレーミング」、
また経済学で使われているベルヌーイの「期待効用」「純益」「可用性」「悲惨指数」などの指標を
頻繁に用いて患者たちの心理を考察しながら、一方では「数値化」の限界も指摘していること。

……医療上の意思決定を単なる数値に落とし込もうというのは間違った考えかつ還元主義的な行為で、葛藤と喜怒哀楽を伴う、複雑で頭の痛いプロセスを過剰に単純化しようとしているに他ならないということだ。

 私たちが今生きている文化では、何らかの答えを必要としたとき数字を求める風潮が強くなっている。不確実な現実世界において、数字は正確性を象徴するものである。(p.131)


 実際、保健政策立案者や保険会社は、患者は「治療の質」の数値が出ているレポートカードに基づいて医師を選ぶべきだ、という考えの普及にますます力を入れている。また、私たちの文化ではパフォーマンスの評価に数字が欠かせない、とする風潮も強くなる一方である。……しかし、医師を評価するために使われる計算式では、臨床的判断のカギとなる要素、つまりそれぞれの患者に応じて医師がどのように治療を決定しているか、を数値化することはできない。(p.162)

(中略)

……保険会社の意図は、医療におけるもっとも悩ましい現実である「不確実性」はもはや心配の種ではなくなった、と私たちに信じ込ませることだ。……しかし、現実には望ましい結果を確実に保証できるひとなど誰もいない。(p.162-163)


不確実性と患者の自己決定をめぐる著者らの考えは、
私が以下のエントリーで考えてきたことと同じように思える ↓
「自己決定権」と「医療の不確実性」の関係をぐるぐるしてみる 1(2014/4/22)
「自己決定権」と「医療の不確実性」の関係をぐるぐるしてみる 2(2014/4/22)


本書の最後には、QALYにも批判的な言及がある。
著者らによるQALYの説明は
「ある治療により余命に加えられた年をその一年の間の生活の質でもって上下に調整した数値」

ヘイスティング・センターのマイケル・K・ガスマノとダニエル・キャラハンの懐疑と、
インペリアル・カレッジ・ロンドンの経済学の教授であるポール・ドーランの批判を引用。

またノーベル賞学者のダニエル・カーネマンはQALYを「19世紀の物理学者が
実際は存在しない空間中の『エーテル』の粘土を計ろうと腐心したことになぞらえている」と書く。

QALYについては、当ブログでも懸念していた↓



若くしてコンサルティング会社を立ち上げて戦略プランナーとして成功した患者が
白血病と診断されて、骨髄移植を受けるかどうかを「合意的に」判断しようと、
仕事と同じく経済学の「可用性」指標を使って検討を重ねた結果、
「多数の研究者と同じように、病気を抱えて生きるという動的な事象を数値化することは
どの方法を用いても不可能だ、という意見」(p.205)に至った事例が興味深い。

彼は癌センターでのプロトコルに沿った治療を
「医師と患者による茶番劇」「患者も加わって合理的な意思決定をしているようなふり」(p.202)
とまで形容する。


終末期の章で目を引かれるのは、
寝たきりの人生など生きる価値がないと考えていた高齢女性が、
実際にそうなった時には娘の焼きたてのマフィンを食べられることに喜びを見出して
生きたいと望んだ事例。

著者らは事前指示についても否定的だ。

引用されているのは、終末期の意思決定の専門家、イェール大学のテリー・フリード医師。
調査で189人の患者に2年間の追跡調査を行ったところ、
約半数の患者で終末期の治療についての考えに一貫性がなかったことから、
カリフォルニア大サンフランシスコ校のレベッカ・L・スドーレ医師との2010年の内科紀要で、
彼は以下のように書いた。

「事前治療計画の従来の目的は、主治医が患者の希望に沿った治療を行えるよう、深刻な病態になる前に患者の治療方針を決めさせておく、ということであった。しかし、そのような事前の意思表明があっても、主治医や代理人が患者の希望をよりよく理解することにはならないこともしばしば認められる」(p.217)


「意向の変化に関わる大きな要素は適応力である。患者にとって障害に負けずに生きる自分の姿を想像し難いことも多く、そのためそうした状態になったら積極的な治療はしてほしくないとの意思を表明する。しかし、実際そういう状態に陥ると、徹底した治療もいとわなくなることも多い。たとえそれで得られる利益は限られていても、だ」(p.219)


著者らは、患者の意思の変化の要因として、適応力の過小評価の他に、
「焦点化(失われた機能のみに意識が向く)」と
「緩衝化(現実に対応する無意識のメカニズム)」を挙げる。

実際には急速に状態が変化していて、感染症や機能低下など複雑な問題が背景にある中で、
何が「通常を超える積極的な治療」なのかの判断も、正確な予後予測も難しい。

ハーバード大の老年医学専門医、終末期医療の研究者でもある、ミュリエル・ギリック医師は、
2010年のニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスンで以下のように書いているという。

「その立場、法制化、研究に膨大な労力が注がれたにもかかわらず、事前意思表明は全くうまくいっていない、というのが医療倫理学者、医療サービスの研究者、そして緩和医療の医師の共通した見解だ」(p.217)


著者らによる以下の一節は、とりわけ力がこもって、米国の医療システムへの憤りが感じられる。

患者一人一人へより注意を向けること、病状の非常に重い患者と共有する時間を増やすことの必要性は、「効率性」をますます偏重する現代の医療システムと相反する。要職にある保健政策立案者はもちろん、医師の中にすら病院を向上のようなものと見なし、医療は製造業方式で提供されるべきだと主張する者がいる。実際、患者と接触する時間は数分にまで削られてしまった。……しかし、……それは、決して工場の組み立てラインから「効率的に」生産される「製品」とはなりえないのだ。(p.229)


そう名指しはされていないが、
著者らが「オレゴン、ニューヨーク、ノースキャロライナといった州では、
入院の時点で患者にどんな治療を望むかを患者に(ママ)書かせ」ている、と書いているのは
POLSTのことだろう。彼らはPOLSTについても否定的だ。

……確かにこうしたことは判断の助けにはなるかもしれないが、クイン家やアドラー家が交わしたような患者、近親者、医師の間で交わされる真剣で、時間のかかる、感情のこもった会話に代わる近道はない、と緩和医療の専門家は強調している。こうした会話は一つの台本に沿って進むものではないし、時には大きく迂回することもある。しかし、誰もがいつか直面しうる難しい選択にも、何度もコミュニケーションを重ねることで筋道の通った答えを出せるようになるのだ。事前意思表明、いわゆるリビング・ウィルは、私たちの希望を表明する最初のステップであって、決して最終的な結論ではない。(p. 254)

患者の「自立性」を保障する手段とされる代理決定についても、しかり。

……たとえ代理人が患者と事前に治療の意向について話し合っていたとしても、また患者の事前意思表明書を書面で持っていたとしても、患者本人の希望に合致しない選択がしばしばなされていることが多くの研究によって示されている。(p. 268)


インディアナポリスの老年病学と医療倫理の研究者、アレクシア・M・トーク医師は、

「代理意思決定の理論上のフレームワークが作られて以来、代理判断は謝った前提に基づいたものであり、患者の自立性を守るという標準的な目的が達成できていないということが研究により示されてきた」(p. 269)


裁判所や大多数の倫理学者は、自立性を与益よりも優先するが、
トークの調査によれば、事前指示書やリビング・ウィルがあっても
医師が「患者の意向をキ―ファクターとして捉えていたのは半分以下のケースだけだった」(p.270)

トークは患者の人生にフォーカスせよ、という。

「患者の送ってきた人生の話にフォーカスを当てることで、代理人と医療者の間に目的の共有と理解が生まれる。また、その患者のストーリーに注目することには患者の家族のニーズと希望から患者自身のニーズと希望に注意を移すという心理的な利点もあるが、同時に患者について情報を得るという現実的な視点も保つことになる」(p274)


また、「無益」についての考えを変えたのは、
ニュージャージー医科歯科大の上級救急医のボリス・ヴェイスマン医師。

「医師としてこれまで障害者や、姿かたちが様変わりしてしまった者、人工的な機会に支えられている者がその人生を楽しみ、できるだけ長くいきたいと願うのを無数に目にしてきた。またICUから生還し、その後生産的な人生を全うした患者もいた。……」

「命は貴いもので、何物にも代えがたいものである。重い不治の病ですら、一時的に良くしたり、症状を和らげたり、コントロールしたりすることができる。……私にとっての『DNR』とは、『投了しない(Do Not Resign)』の略である。私がまだ考え、コミュニケーションができ、想像することも生活を楽しむこともできる間は、命を救う努力を辞めないでほしい。私の治療にあたるときは、あなた自身のケアもきちんとしてほしい。私があなたの楽観主義を最も必要とするときまでに燃え尽きてしまわれては困るからだ」(p. 284)


ヴェイスマンの引用の最後の個所は、面白い視点と思った。
(その直前のパーソン論的な個所はともかくとして)


結論としては、
エビデンス・ベースト・メディスン」に加えて、
ジャッジメント・ベースト・メディスン」の実践が説かれている。

著者らは、理想的な態度を、いくつかの事例に登場したジャック・カーター医師に見る。

……カーター医師は彼らの選択全てに賛同するわけではないが、その志向、価値観の理解に努め、自分自身の志向とはたとえ異なっていたとしても、彼らの希望を尊重する姿勢を見せている。自分自身の好みを患者に押し付けるような医師もいただけないが、患者の決定に唯々諾々と従うだけの医師から得られるものも少ないだろう。選択の過程でその後押しをするだけでなく、あえて問いを投げかけてくれるような医師の方が時としてより自分のためになることもあるのだ。(p.299)