ショーケンの「安楽死のイメージ」

3月26日に亡くなったショーケンは何人目かの「初恋の人」なので、
中学生時代を彩ってくれた人を偲びつつ読もうと思って、
(買おうかどうか迷ったのだけど、まずは図書館で読んでみて決めようと)
図書館にリクエストを出しておいたら、

なんとNHKの「いだてん」に高橋是清役で登場するという、
待ちに待った今日のこの日に「リクエストが届きました」のメール。

さっそくに図書館に走り、
初めて見る「いだてん」を挟んで一気読みした。

そして、その終わり近くになって、
思いがけない箇所に出くわした。

235ページ。小見出し安楽死のイメージ」

うっ……てな感じだった。小見出しを目にした瞬間。

読みたくないな……という感じも、ほのかにあった。
でも、まぁ大好きな人のことだから、読まないという選択肢はなく。

そしたら、ものすごい「安楽死」が書かれていた。

こういう「安楽死」を語った人は、これまでいなかったんじゃないだろうか。

なので、以下に。

 私の場合、今の段階ではもう手術という選択肢はなくなった。最期がいつになるか、明日なのか、それともずっと先なのか。それはまったくわからない。

不惑スクラム』の撮影に入る前の2018年6月、医師に私の余命を聞いた。

「一年半です」という答えが返ってきた。

 病を患ったことは、もちろん不愉快だし重く苦しいことだ。けれども、これもまた私の人生における難関だと考えている。悔いのない人生を送ることで難関を乗り越える。だから何がなんでも治そうとは思わない。病を抱えたままでいい。

 一日一日を大切に生きようと思った。「大切に生きる」というのは、必死で勉強することでもなければ、心を入れ替えて暮らすことでもない。

 ただ、一日をゆったりと過ごす。怠惰に暮らすわけでもなく、お迎えが来るのであれば、それに逆らわないということだ。

 私がずっと考えているのは「安楽死」だ。ここで言う安楽死とは、病院で苦しまずに安らかに息を引き取ることではない。

 体の苦痛のことを言うならば、結局それは自分にしかわからない。死を控えて私が苦しんでいるのを見守る人間は別の意味で苦しいのだろうが、私以上には私のことはわからない。

 私の言う安楽死とは、自分が逝くとき、逝った後のことを含めて不安に陥らず、心安らかなまま人生を閉じることを指している。

 世間は有名人の死に際し、最初はその業績をなつかしみ、たたえはする。けれども、やがて血縁や相続をめぐって取り沙汰し、没後の魂を汚すことさえある。スキャンダルの標的にされ続けてきた私の場合、そんな「その後」が容易に想像できる。

 それはどうしても避けたいと思った。これまで懸命に私を支えてくれた妻が苦労しないための準備をしておきたい。それが最後の務めだと思っている。

 残された人間が「最後は穏やかだった」「安心しきっていた」と温かな灯りを抱いて見送り、その灯りをともし続けてほしい。そのとき、私は初めて心置きなくこの世に別れを告げることができるだろう。
(p. 235-6:ゴチックはspitzibara)


ここにある「安楽死」のイメージは、
BBCのクルーを伴ってスイスへ行き、プライシク医師の幇助を受けて自殺したBinnerさんの死の
ちょうど対極にあるもののような気がする。

【Binnerさんの妻デボラさんの手記に関するエントリー】
スイスで医師幇助自殺遂げた夫に、妻の慙愧(英)(2018/11/18)
Deborah Binner ”YET HERE I AM One Woman’s Story of Life After Death”(2019/3/29)