重症障害者については、実は医療職だってイメージ先行

前のエントリーで読んだ対談で
安藤泰至氏が以下のような発言をしている。


それから病院のなかの医療でできることには非常に限界があるわけで、死にゆく人のケアについては病院以外、医療以外のところで実際にできることがいっぱいあるんですけど、病院勤務の医療者はそういうところに目が向いていないというのがあると思います。

病院でできる医療についてすら、医療者だからといって知識が十分なわけではない。たとえば高齢者が自分の口からものを食べられなくなった時に、胃瘻のような形で人工栄養補給をするかどうかという際に、胃瘻をするともう不可逆で死ぬまでずっとそのままだと思い込んでいる人が多いのですが、実際はいったん胃瘻をつけることで体力が回復してまた口から食べられるようになる可逆的な人もいるんです。その見極めは高齢者の医療にかなり経験を積んだ人でないとできないのに、なにか「胃瘻」イコール人工的な不自然なものでずっと生かされているというイメージだけが先行している。そういったイメージは一般の人だけでなく、ほとんどの医療者も同じだということですね。


医療者のほとんどは病院のなかでの現実しか見ていないので、重い障害を持っていてもそうやって生き生きと活動していってらっしゃる方の実際の生活をほとんど知らないのです。病院のなかだけしか知らない。


これを読んで、どうしても書いておきたくなった
最近あった、ある医師との個人的な会話。

四方山話をしていた際に、たまたまの話の流れから
難病の人の自己負担が増えることになったことを案じている、
ALSの人も呼吸器をつけにくくなるのではないか、という話をしたら、
それを聞きとがめられる感じで、

ALSがいかに過酷な病であるかという基礎知識を
(どうせ何も知らないだろうという前提で)説明してくださり、

「呼吸器をつけたら家族も大変だから、つけない方がいい。
あれは大変な病気で、他の病気とは一緒にはできないよ」と言われたので、

それなら、この際、医師の側からの直接体験を聞いてみようと思って、
「ALSの方を診られたことがおありなんですね」と聞いたら、

「見たこともありません。テレビで見ただけ。篠沢教授とか」と、さらっと言われたのに、
椅子から転げ落ちそうになるくらいビックリした。

私のような素人でも知っている橋本操さんのことも、
川口有美子さんの『逝かない身体』も、聞いたことすらない。

私のような素人でも、
ALSの方を含めた人工呼吸器使用の重症障害の方々が
ヘルパーと一緒にシンポに出てこられて文字盤を使って意見を言われたり、
積極的に活動しておられるのは自分の直接体験として見たことがあるけど、
たぶん、そんな経験もない。

それでも、
ただ漠然と「医師の間ではこういうふうに言われている」という程度の認識で
「ALSは大変な病気だし家族も大変だから呼吸器はつけない方がいい」と、
しかも「あなたは素人だからわかっていない」と決め付けるトーンで
確信に満ちて発言できるということに、

またそうした自分の発言が
社会的にどのような影響を及ぼすかについて
あまりにも無自覚でおられることにも、

それから、その時に話した諸々の社会保障制度改革の動向についても
なんか、もうびっくりするほど全く何もご存じないことにも
チョーびっくりした。

実際は「医療の世界では”そう言われている”から
自分も自動的に“そういうものだと”思い込んでいる」だけなんだけど、

それでも医師だというだけで
こうも疑いを微塵も持たない断固たる口調で言い放たれてしまうと、

なるほど、こうして
検証もされていない「医師の間でこういうものということになっている」ことが
「事実」として世間に出ていって、さらに医療の権威でそれが補強されるのだなぁ……と。





どのあたりが「関連」かというと、例えば以下の下りとか。

専門家が持っている高度な専門知識というものは、私に言わせると、
広く大きな部屋の、ある特定のスポットを照らす懐中電灯なんだと思う。

専門家が専門家たるゆえんは、狭い領域のことを深く知っていること。
スポットであって、狭いことにこそ、意味がある。

一方、親と子が日々を暮らしている生活という「部屋」は、
専門分野の懐中電灯1本や2本でカバーできるはずもないほど大きく広い。

だからこそ、いくつもの専門領域に渡って何人もの専門家が関わってくれないといけないんだけど、
でも、それぞれの専門家が持っているのは1本の懐中電灯でしかないし、
何人集まったとしても、部屋の全体を照らし尽くせるわけでもない。

人が暮らしている「部屋」には、ちょっとやそっとでは明りに照らし出せない
入り組んだ隅っこや、隙間や、闇の部分だって、あるしね。


まぁ、この先は
部屋全体を照らす「蛍光灯」たる親の存在ということを言いたいわけなんだけれど、

安藤氏の言う「実際の生活をほとんど知らない」って、
こういうことだと思う。

「専門性が高い」ということは「狭い」ということでもあるんだけれど、
その「高さ」があらゆることにおける「優位性」を担保してくれるとカン違いしている人が、
医療の”専門家”に限らず、学者とかにも多いんじゃないのかなぁ……。

まぁ、中途半端に専門性が高い人がそうなんであって、
ホンモノの専門性の高さの粋に達している人はむしろ「狭さ」を自覚して
それなりに謙虚で柔軟なことが多いような気もするんだけれど。


ここで経験則というのが結構、大事なのは、
「この人はその分野の専門家じゃないけど、でも専門家よりもアテになる」てことは結構あるし、
専門家との付き合いで大事なことの一つに、たぶん、タイトルに惑わされないこと、というのも?
「ものすごくエライということになっている」タイトルの保持者が必ずしも実力者だとは限らない。

そういえば Marriottさんも、
断定的にものを言う専門家は、案外アテにならないことが多いと心得よ……と書いていたな。


あと、“身勝手な豚”さんも終わりのあたりで力説しているけど、
情報がほしい時、まっさきに聞いてみるべき相手は、実は専門家よりも、
自分と同じような“子豚”を介護している人たち。

ケアラーの最大の味方は、同じような人を介護しているケアラー。

これは、まったく私も同感。
ただ、私は情報源と支えてくれる人については全く同感でケアラーだけど、
現実に支援の方策を持っているのは、やはり専門家だと思う。

もちろん、どの専門家が役に立ってくれて、
どの専門家はただのトウヘンボクか、
どの専門家にはどんなクセや要注意点があるか、
といった情報を教えてもらえるのは、
やっぱり同じケアラー仲間。

それは間違いない。


あはは。
結局ほとんど引用しちゃったよ。