対談「超高齢社会における尊厳死 -「宗教」の立場から考える―」

ちょっと直前エントリーとも関連しそうな対談。

『現代宗教2014』の特集「老いに向き合う宗教」の
戸松義晴氏と安藤泰至氏の対談(司会は堀江宗正氏)、
「超高齢社会における尊厳死 -「宗教」の立場から考える―」



超高齢社会に突入した日本は、今後「大量死社会」に突入するだろう。そのような状況のなかで尊厳死問題が再び形を変えて登場しつつある。それに対して、宗教界や宗教研究者はいち早く、弱者切り捨てなどの問題があることを表明してきた。本稿は、超宗派的な意見の取りまとめ作業をおこなった経験のある戸松と、生命倫理宗教哲学にまたがる論考でこの問題に取り組んできた安藤との対談の記録である。尊厳死よりも尊厳ある生を送ることができるようにするべきであり、尊厳死法制化よりも、尊厳ある生のためのコミュニケーションを重視するべきであるという点で、両者は一致した。他方、宗教には潔く死を受容するようにすすめる面と、死の悲しみに生前から関わり続けようとする面の二面があることも対談から見えてきた。尊厳死を望む社会的風潮のなかで、高齢者に関わり、生死の連続性に立ち会う場を維持することに、宗教者も宗教研究者も配慮し続ける必要があることが確認された。


まず、冒頭で簡単にまとめて語られているお2人の問題意識に
重なりあっている興味深い箇所があって、

戸松氏
現代社会では、死を一つの事象(出来事)として点でとらえ、それより前は医療、以後は宗教、特に仏教が関わるというように、役割が分断されています。しかし、患者やその家族にとっては、生の連続性(プロセス)のなかに死があると思います。

安藤氏
本来だったら尊厳ある死に方というのは尊厳ある生き方の延長線上にあるものなのに、それがひっくり返ってしまっているという現状を批判的に問題にしたいと思っています。


その他、お2人の発言から印象的なところを以下に拾うと、

尊厳死賛成派の人たちは、たとえば医者はほっとけば限りなく延命のほうに向かうんだというような認識をしている人が多いのですが、現在はけっしてそうじゃないんです。過剰な医療に向かう傾向より、むしろ本当に必要な医療が受けられない人が多いことのほうが問題だ、というのが私の現状認識です。(安藤氏)


これは、最近どこかで立岩真也氏も指摘していたけど、
とても重要な論点だと私も思う。

医療現場では「無益な治療」論が「死ぬ権利」議論と同時進行しているし、
POLSTホスピタリストやクリティカル・パスなど、
日本でも名前こそ違え、「効率化」のためのシステムやツールが次々に導入されて、
すでに現場の実態は「過剰医療」の逆方向に舵を切っているのが現状だと思う。

戸松氏はこれに肯定的に触れているけれど、
施設入所の際や病院への入院の際に、
万が一の場合の終末期医療で考えうる処置や治療について、
実施の希望の有無を確認し文書化することが多くの現場ですでに慣行化している。

しかし入所や入院の段階で、
自分がどのような状態や状況でそういう事態に直面するかを
具体的に想像することは困難だし、

また終末期の医療をめぐる判断も患者の意思決定も、
実際にそういう状況になった際の、あるいは実際にそういう事態が想定される中での、
固有の症状と固有の状況の中で個別具体の検討でしかありえないもののはずで、

漠然とした「終末期」の想定で深く考えず、
単なる事務手続きの一部として記入した文書の内容が、
現実にその事態が起こった際には「患者の自己決定」として「尊重」されるのだとしたら、
いかにも乱暴な話。ある意味「自己決定」の不当な強要ではないだろうか。

てか、これって
日本では法的根拠のないまま、一種のPOLSTが
すでに導入されているということでは?

Truogも
「70年代、80年代に議論されたのは望まない治療を拒否する患者の権利だったが、
90年代から2000年代にかけては、論点が治療を要求する患者の権利にシフトしてきた」
2011年11月10日マサチューセッツ大学医学部での講演で指摘しているけど、

日本では治療を要求する患者の権利の議論にいかずに、
人々は「一定の年齢と障害像になったら潔く医療を放棄して死ぬのが美しい」と説かれては、
それをおとなしく受け入れていこうとしている。

安藤氏は、医療職の不足などで現場が疲弊する中で
「医療やケアの不備を逆に正当化するような働き」をしているのが
現在の「尊厳死」法制化推進論だとも指摘。


また、医師の免責のために法制化が必要だとの主張への反論でも
両氏の発言は重なっている。

安藤氏
たとえば法制化することでで、医師の免責ができるということが言われるんですけども、現実的に医師が訴えられるというような場面を考えると、患者本人および家族との十分なコミュニケーションがとれていないようなケースがほとんどであって、それをきちんとやっているのに医師が訴えられるなんていうことはまず考えられない。

戸松氏
明らかな医療過誤の場合であっても、誠意を持って一生懸命やっていると患者さんの家族からお礼の手紙がきたり、逆に手落ちがなくても信頼関係が崩れたりすると、患者さんやご家族の方から、馬鹿にされたとか嘘をつかれたとか、そういうクレームがあり、訴追までもっていかれるということがある。だとすると、この尊厳死の問題も信頼関係を構築しながら進めていかないと、これは医療界にとっても、それから、それを受ける私たち国民にとっても、不幸になるのではないかと感じました。


戸松氏は、さらに、

私が非常に大事だと思うのは、宗教者と信者や一般の方、あるいは医療者と患者さん、そういう信頼関係が崩れると、結局どんなシステムを作っても、なにをやってもそれが働かないということです。


これこそ、私も「死ぬ権利」議論、「無益な治療」論について
最も懸念される点だと思う。

シノドスに書いた英国のLCP報告書に関するレポートでも
私が言いたいことの中心はここにあったのだけれど、
その後、さらにちょっとまとまってきて
以下は最近、某所に書いた文章の一説。

「死ぬ権利」「死の自己決定権」議論は一方の「無益な治療」論と相まって歯止めなくエスカレートし、患者の自己決定権を保障するわけでも医療サイドと患者・家族サイドの信頼関係構築に寄与するわけでもなく、むしろ患者の医療を受ける権利を脅かし、医療サイドと患者・家族サイドとの溝と不信を深める方向に向かっているとしか思えない。


ただ、こういう認識でいる戸松氏が
「終活」としてエンディングノート推進活動へ行ってしまうというところの
安直さというのか浅薄さというのかが、さっぱり理解できない。

戸松氏はその部分について以下のように説明しているのだけれど、それこそ
ご本人がこれまで「死だけを特別扱いするのはおかしい」と語ってきたことに反するし、
浄土宗という宗派を丸ごと政治的な流れに乗っけて
それに加担させてしまうことにならないだろうか?

自分らしい死を迎えるのだといって自分の思いだけで勝手に決めてしまうような自己中心的な死が認められていくというのは、仏教徒としてあるべき姿に一番反していますから。本来、人は関係性のなかで生まれて関係性のなかで亡くなっていくのが仏教の考え方なのです。そういった関係を紡いでいくということの大切さを、浄土宗のお寺から檀信徒の皆様に伝える。死をパーソナル(個人的な問題として片づけてしまうのではなく、ご家族や親しい方とお互いに話し合って関係を紡ぎながら共有する問題なのだと発信する取り組みを進めています。


そもそも、そういうことをしておくのが「尊厳ある生き方」だと
簡単に言ってしまう宗教者って、どうなの? というのが
私としては即座に頭に浮かんだ率直な感想だったのだけれど、

直前エントリーで考えた「自尊死」からすれば、
「自分らしい死」だといって家族を無視してきめるのが
仏教徒としてあるべき姿に一番反している」んじゃなくて、

家族と共に話し合うとか話し合わない以前に、
「自分らしい死に方」をすることにこだわる我執こそが
一番反しているんじゃないんだろうか。

なんか、宗教者が
「自分らしい死に方」を求めて「終活」をしましょうね、と勧めるという図そのものに、
ものすごく違和感があるんだけれど……。

……と思っていたら、

そこで安藤氏がすかさず
「ちょっといいですか」と口をはさんでくださる。

宗教によって「人の有限性の自覚」が過剰に強調されると
宗教の立場が延命治療放棄を促してしまう可能性にも注意が必要だと指摘し、
(安藤氏はかねてよりシステム化したグリーフケアにも同様の陥穽を指摘している)

キサー・ゴータミの逸話を引いて、
「人間の実際に生きる現実に細やかに寄り添っていくという姿勢」そのものが
医療にも宗教にも欠けていることが問題なのだ、と述べて、

問題の本質が
戸松氏の説く「終活」レベルよりもさらに深いところにあることを
やんわりと指摘してみせる。

司会者は戸松氏の先の発言の意図を
「教義よりも実践に関わること」だとの主張と捉え直してお茶を濁しているけど、

安藤氏の以下の発言と比べてみれば
「終活」としてのエンディングノートを、
自分だけのことを考えるのではなく家族とも「死に方について」話し合っておくための
ツールとして作ろうとし、しかもそれを一つの宗派として広げていこうとしている
戸松氏との問題の捉えかたの次元の違いがより明確になる。

宗教というものがやっぱり、今の社会の現実のなかで見えにくくなっているそういう人間の存在の原点というものをきちんと人々と一緒に話し合えるような場を作っていくということが非常に大切だと思います。宗教がなにか答えを人に教え込むとか、世界観を教え込むということじゃなくて、そもそもどういう問いのところから宗教というのが生まれてきたのか、そういう原点に帰ることで、かえって宗派とか諸宗教の違いを超えて、実はその問いの部分をもっと共有できるというか、社会のなかで気軽に話し合えるような雰囲気を作っていければいいですね。

そういう「文化」を熟成することが、終末期の医療における選択についても、誰かが死を目前にした時に選択を迫られるというような形で初めて考えるというのではなく、普段からやっぱりそういうことについて、自分の考えをもっておく上での助けになっていくんじゃないかと私は思います。


そこで戸松氏は
高齢社会での「実践」の例として、ハワイのダーナ・プロジェクト
アメリカの禅ホスピス・プロジェクトなどを「実践」例として持ち出してくる。

それらは確かに「終活」やエンディング・ノートよりは
はるかに「実践」である。

戸松氏の
宗教者もそうした「実際的な生活支援」をするべきだとの主張には
もちろん共感もするのだけれど、そこにはどうやら
高齢化過疎化その他の社会の変化によって
お寺そのものの存続が危ぶまれる社会の現状もある。

つまりお寺の生き残り策として、
そういうところに実際的な役割も担っていかなければ、といったような。

このあたり、
「今は哲学者も生命倫理をやらないと生き残れないから」といって
生命倫理をやっている哲学の先生の言葉を思い出しつつ、

医療も宗教もアカデミズムも
なんか、それぞれ自身のシステムの限界と疲弊の中で閉じちゃってるなぁ……と
感じつつ読み進んでいくと、

安藤氏が
医療も宗教も「生活している生身の人」が見えなくなっている現状から
医療とは本来何か、宗教とは本来何か、人が生きるということは何か、という原点に戻って
話し合いの「場を開いていく」必要がある、と。

安藤氏は何度も「場を開いていく」ということを言っていて、
それが先に出た「文化」を創っていくことにつながるということなんだな、と。


最後の辺りを読むと
戸松氏はハーバードで生命倫理を学んだ人のようなので
それで考え方にどこかバイオエシックスの香りが高いのかもしれないけど、
特定の宗派をこぞって「終活」へと誘導する宗教者というのに
違和感をずっと引きずってしまった。

最後に司会の堀江氏がズバリな発言をしている。

特定の政治的イデオロギー、とくにここ15年ほど、人々の孤立化を進めてきた新自由主義イデオロギー、さらに拙速とも言えるほど尊厳死の法制化を進めている特定の政治勢力、メディアの風潮、そういうものに奉仕するような研究をおこない、お墨付きを与えるようないわゆる「御用学者」もありうるわけです。


こういう問題意識に立てば、
「終活」に宗教者が手を染める、という発想は出てこないんじゃないかなぁ……と、
私はやっぱり、どうしてもそこにこだわってしまった。