「尊厳死」ではなく、もはや「自尊死」:永嶋哲也氏論文
最近、death with dignityのスタンダードが
「救命不能性」や「終末期」から「許容できないQOL」へと急速にシフトしていることについて、
それを「尊厳」概念の「世俗化」と捉え、批判的に考察するもの。
「救命不能性」や「終末期」から「許容できないQOL」へと急速にシフトしていることについて、
それを「尊厳」概念の「世俗化」と捉え、批判的に考察するもの。
論文の流れは
まず日本語の「尊厳」の意味を
以下の3点にそってたどりつつ考察し、
以下の3点にそってたどりつつ考察し、
・それがdignityの訳語として輸入された概念であること
・ヨーロッパ語の尊厳の概念を確立したのはカントとされていること
・カントの尊厳が受け入れられた背景にキリスト教倫理における隣人愛の思想があること
(よきサマリア人の喩えと、マザー・テレサの死にゆく人々へのケアの例が使われる)
・ヨーロッパ語の尊厳の概念を確立したのはカントとされていること
・カントの尊厳が受け入れられた背景にキリスト教倫理における隣人愛の思想があること
(よきサマリア人の喩えと、マザー・テレサの死にゆく人々へのケアの例が使われる)
次に、以下の点が指摘されて、
・ところが現在の生命倫理学では「生命の神聖性」(sanctity不可侵性)が否定されること
・そこにパーソン論が関わっていること
(この点は、ごくさっぱりと述べられているが、注にはシンガーが何度も出てきており、
概念の転換がここで起こっていることを示唆する非常に重要な箇所)
・ところが現在の生命倫理学では「生命の神聖性」(sanctity不可侵性)が否定されること
・そこにパーソン論が関わっていること
(この点は、ごくさっぱりと述べられているが、注にはシンガーが何度も出てきており、
概念の転換がここで起こっていることを示唆する非常に重要な箇所)
終盤では、
「尊厳」が「死」と結びついた「尊厳死」(death with dignity)では
「尊厳」の世俗化によって「尊厳」が「自尊感情」を意味するようになったことを
映画『ミリオンダラー・ベイビー』と
2008年にディグニタスで自殺した米国人のALS患者Craig Ewertさんの事例から
明らかにする。
「尊厳」が「死」と結びついた「尊厳死」(death with dignity)では
「尊厳」の世俗化によって「尊厳」が「自尊感情」を意味するようになったことを
映画『ミリオンダラー・ベイビー』と
2008年にディグニタスで自殺した米国人のALS患者Craig Ewertさんの事例から
明らかにする。
Ewertさんの映像についてはこちらに ↓
英TVにDignitasでの自殺映像、Brown首相「合法化は支持しない」(2008/12/12)
豪TVでも、DignitasでのALS患者の自殺映像放送へ(2009/8/17)
デンマークでも幇助自殺映像をTV放送(2009/10/6)
ALS患者のDignitas自殺映像が映画祭に(米WA州)(2009/10/16)
英TVにDignitasでの自殺映像、Brown首相「合法化は支持しない」(2008/12/12)
豪TVでも、DignitasでのALS患者の自殺映像放送へ(2009/8/17)
デンマークでも幇助自殺映像をTV放送(2009/10/6)
ALS患者のDignitas自殺映像が映画祭に(米WA州)(2009/10/16)
この論文の結論の最終部分は、
さて、以上のような考察を踏まえれば、「尊厳死」という言い方は、不適切とは言わないまでも、正確な理解を導くのに最適な用語であるとは言いがたいとわかるであろう。「尊厳死」という考え方は、人間としての尊厳を保って終末期を生き死を迎えることを理想的には定義できるだろうが、実際には自尊感情を守るために自ら死を選択することとでも表現すべき内容になっているからである。
「尊厳」という語は長い伝統を持ち、宗教的な理想や人権思想の根本も担ってきた非常に格式のある言葉である。何やらとても立派でありがたそうな語感を持った言葉である。その言葉を用いて「尊厳死」と表現することで重要なそして同時に非常に微妙な事柄が覆い隠されてしまっているのではないだろうか。言うまでもなく自尊心はキリスト教倫理ではいわゆる「七つの大罪」と呼ばれる罪源の一つであった。「尊厳死」というなにやら厳かな表現を捨て、いっそ「自尊死」という身も蓋もない言い方をしてみてはどうだろうか?その上で、それがわれわれにとって望ましいものかどうか議論すればよい。そうすれば今よりも少しは話の噛み合う議論になるのではないかと思う。
「尊厳」という語は長い伝統を持ち、宗教的な理想や人権思想の根本も担ってきた非常に格式のある言葉である。何やらとても立派でありがたそうな語感を持った言葉である。その言葉を用いて「尊厳死」と表現することで重要なそして同時に非常に微妙な事柄が覆い隠されてしまっているのではないだろうか。言うまでもなく自尊心はキリスト教倫理ではいわゆる「七つの大罪」と呼ばれる罪源の一つであった。「尊厳死」というなにやら厳かな表現を捨て、いっそ「自尊死」という身も蓋もない言い方をしてみてはどうだろうか?その上で、それがわれわれにとって望ましいものかどうか議論すればよい。そうすれば今よりも少しは話の噛み合う議論になるのではないかと思う。
「自尊死」に、座布団10枚!!
また、永嶋氏のキリスト教倫理に関する考察の下りは
去年11月に拝聴した土井健司氏の人間の尊厳をめぐるお話での
もともとは身分の高い人にのみ認められていた尊厳概念が
貧者の中にキリスト・神を見たカッパドキアの3教父の隣人愛を経て
人間すべてに絶対的な価値がある「尊厳」概念につながった、というところが
ほとんど流れが同じだったので、とても分かりやすかった。
(土井先生のお話も、ピーター・シンガーのパーソン論に基づく「尊厳死」擁護論批判だった)
去年11月に拝聴した土井健司氏の人間の尊厳をめぐるお話での
もともとは身分の高い人にのみ認められていた尊厳概念が
貧者の中にキリスト・神を見たカッパドキアの3教父の隣人愛を経て
人間すべてに絶対的な価値がある「尊厳」概念につながった、というところが
ほとんど流れが同じだったので、とても分かりやすかった。
(土井先生のお話も、ピーター・シンガーのパーソン論に基づく「尊厳死」擁護論批判だった)
トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か(前)(2013/11/8):ここから2本のシリーズ
ここの下りも、
非常に示唆に富んでいる。
非常に示唆に富んでいる。
……しかし「絶対的な価値」などという記述よりも、むしろマザー・テレサが実践した隣人愛の方が「人間の尊厳」の説明としてふさわしいのではないだろうか? 全く無価値だと本人も回りの人たちも思っていたような貧しく弱い人々に彼女は手を差し伸べ、彼ら・彼女らに神聖を見ていた。彼女の見ていた「最も小さい者」のうちの神聖ほど、「人間の尊厳」という表現でわれわれが理解するものに見事に合致するものはない。
私も、前に「死の自己決定権」を唱えている人の一部のことを
「恰好よい自分として生きられないなら、生きる価値がないと思う人たち」と
捉えてみたことがあった ↓
「恰好よい自分として生きられないなら、生きる価値がないと思う人たち」と
捉えてみたことがあった ↓
サンデル教授から「私の歎異抄」それからEva Kittayへ(2010/11/25)
そのあたりが、とても興味深い。
人間の尊厳を失った世界――。
祈りを失った世界――。
愛を失った世界――。
祈りを失った世界――。
愛を失った世界――。
【尊厳について、考えてみたエントリー】
「納棺夫日」と吉村昭の最期(2009/6/29)
「尊厳は定義なしに使っても無益な概念」をぐるぐる考えてみる(2009/6/29)
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」(2009/6/30)
「いのちの選択」から「どうせ」を考える(2010/5/21)
統合失調症のスペイン人男性にDIYキットを渡したとして、Dignitasに捜査(2010/6/1)
(Dignitasが自殺者の遺骨を湖に投棄していた問題から尊厳を考えてみたエントリー)
なだいなだの「こころ医者」から「心の磁場」とか「尊厳」とか(2010/6/3)
MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる(2010/6/17)
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