朝日新聞の耕論 尊厳死法は必要か


周防氏はご存知、映画監督。
2012年に終末期医療を扱った映画「終(つい)の信託」を公開。

鈴木氏は、内科医で
日本尊厳死協会副理事長。

安藤氏は当ブログでもいつもお世話になっている宗教学者

何度も絶句してしまった鈴木氏の発言を中心に、
他のお二人の発言と、当ブログの関連情報などを併記する形で。

まず、鈴木氏は植物状態の人のことを「不自然な生」と呼び、
「医学の発達と高齢化により、こうした存在はどんどん増えています」。

ALSの患者さんに「人工呼吸器はつけたらはずせない」と医師が説明しているから
「障害者にとっても必要な法律だと考えています」という。

でもこの法案、二人の医師が終末期だと診断した患者さんの
治療の差し控えまたは中止に関する法案のはず。

それなら、植物状態の人もALSの患者さんも
それだけでは法案の対象にはならない。

(そもそも鈴木氏が言っている状態の人が「植物状態」なのか、
私には長尾和宏氏の言う「植物状態のような人」にも思えるんだけれど)

それでも、なぜか、
ここで語られているのは植物状態の人とALSの患者で、

だから、鈴木氏にとって問題なのは実は「終末期であるかどうか」ではなく、
「不自然な生」であるかどうか、つまりQOL

終末期の患者の意思を尊重するための法律であるはずなのに、
実はそこでは終末期じゃなくて重症障害=「不自然な生」が問題なんだという
ダブルスタンダードがバレてしまっている。


で、そこのところ、

安藤氏は

仮に「尊厳のない状態」というものがあるとして、じゃあ、死なせてしまうしか尊厳を保つ方法はないのでしょうか。医療やケアの問題点をそのままにして、死にたい人を死なせてあげるのが人道的という考えは危険です。

医療者が「死なせる」方向で患者や家族に恣意(しい)的な説明をする恐れも捨てきれません。


医師が、一定の障害像になったら「不自然な生」だという持論の持ち主だったら、
なおさらのことでしょう。

鈴木氏は植物状態の人を「不自然な生」だと言っているけれど、
「無益な治療」論の対象者の線引きは、植物状態から最小意識状態へ、
さらにその先へと、現実に前倒しに動いてきている。

最近では「救命しても、
多くの人がこんな状態では生きていたくないと思う状態にしかならない」から
生命維持治療は無益だと主張する医師も出てきている。

周防氏は

尊厳死法案に障害者の団体が反対していると聞きます。「受けたい治療が受けられず、切り捨てられるんじゃないか」といった不安の声に耳を傾け、その思いを反映させないといけない。そういう声をきちんと聞けない社会は、良い社会とは言えないでしょう。


もう一つ、鈴木氏の発言で、
いつもながら尊厳死法制化推進の人たちの論理のおかしなところだと思うのは、

医師が患者や家族に治療の内容や今後について説明し、治療の中止を患者側が望んでも、医師は治療をやめない。そのほうが安全だから、と「ことなかれ」が横行している。患者にとって不幸なことです。


拙著『死の自己決定権のゆくえ』でもこのブログでも何度も書いてきたけど、
この人たちが言っていることの基本は、「医師がやっていることがおかしい」であり
それが「患者にとって不幸なこと」になっているなら、
医師のやっていることの方を変えるべきだという方向に次の話は向かうべきなんでは?

ところが、そこから話は以下のように続く。

 一定の条件のもとでは治療を中止しても医師は罪に問われない、と明確に法律で位置づけることが重要です。法律ができれば、静かに看取(みと)るための知識や技術を全ての医師が真剣に学び、取り組むようになります。


先に「ことなかれ」と表現されたことの背景には
現在、静かに看取るための知識や技術を医師が真剣に学んだり取り組んでいない
という問題があることを、ここで鈴木氏は認めている。

これは実のところ、
「○○死」を説いている医師の方々の主要な批判の論点でもある。
在宅医や施設医の先生方は、病院の医師についてここのところを
かねてより批判しておられる。

病院の医師は穏やかな看取りのために必要な知識や技術を身につけていないし、
身につけようともしていない。それが患者を苦しめているんだ、と。

これこそ、まさに今の日本の終末期医療の一番の問題を
鋭く指摘しておられる、ありがたい、と私は思う。

でも、なぜかこういう医師は「だから病院の医療を変えよう」とは言わない。

むしろ「だから患者は医療を自ら放棄して死ぬことを選べ」と
医療の問題を患者の死に方の問題に転嫁して、

だから患者が医療を放棄して尊厳死を選べるように法律を作ろう、と説く。

でも、むしろ、先の「医師のことなかれが悪い」という話は、本来ここの、
「なによりもまず、すべての医師が必要な知識と技術を真剣に学ぶべきだ」という話に、
シンプルにつながるべきじゃないんだろうか。

なんで法律ができないと医師が終末期に必要な知識と技術を学べないのか、理解できない。
今でも必要な知識と技術を学ぶ必要を感じていない医師なら、この法律ができたら
むしろ逆に、さらに学ぶ必要を感じなくなるんじゃないかという気がする。

そこのところ、周防氏は以下のように懸念する。

一方で法律ができると、要件がそろったから、と深く考えずにすぱっと物事が決まってしまう恐れがある。治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の質も量も薄まってしまう。


普通に考えて、法律ができたら、こっちが起こりそうだと私も思うし、

実際、英国ではLCPという看取りのケアパスがチェックリストとして使われて、
高齢者を鎮静と脱水で機械的に死なせることが慣行化した ↓


英国のLCP報告書も
一番大きな問題はコミュニケーションと信頼関係の欠落であり、
意思決定を共有しようとしない医療職の閉鎖性が問題だとも指摘していたけれど、

周防監督もコミュニケーションの問題だということを力説している。

良い医療かどうかって、患者や家族が医かに納得できるかにかかっている。コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。

法律ができたら争いはなくなるんですかね? これとこれを満たしているから、絶対罪に問われませんと進めても、患者の家族から「おかしかったのでは」と問われることは、出てくると思います。逆に、この患者にとって何がベストなのかを話し合うことができれば、法律に頼らないですむ。


まったく、その通りであって、問題なのは
目の前の特定の患者さんの固有の病気と病状と状況の中で、その人にとって何がベストなのかを、
なかなか白黒つかない悩ましさを共有しながら、ともに悩み、個別具体に考えること。

その人の状態が、誰かの一般論において、
「不自然な生かどうか」とか「生きるに値するかどうか」とか
「尊厳があるかないか」とかを、とやかく言うことではなく。

安藤氏は、

日本には、患者が尊厳を持って生きる権利を保障する法律もありません。それなのに尊厳死法なんて本末転倒です。いまの医療のあり方や制度を前提にして発想してはいけません。広い意味での医療文化を根本から変えていくことが先のはずです。


まったく同感。

英国のLCPも終末期の過剰医療への批判と反省から作られたものだった。
それが「機械的に鎮静と脱水で手をかけずにさっさと死なせる医療」に
簡単に転じてしまった。

それは、どちらも
同じ一枚のコインの裏表で起こった「現象」に過ぎない、ということなのだと思う。

コインが単に裏返って終わらないためには、
もっと本質的な問題と向かい合う必要がある。

英国の報告書が提言していたのは
疾病群ごとの終末期医療の詳細な研究。

それから
研究費の増額と人的資源の拡充、教育研修の改善を含めて、
政府が本腰を入れて、終末期医療のあり方を抜本的に見直すこと。