トンボ

2日前の朝――。

ベランダで洗濯物を干し始めてまもなく、
トンボがやってきて、ベランダの奥まった壁にとまった。

羽根全体は透明だけど、
4枚それぞれの先に胴体と同じ茶色の部分がある。

初めて見る、印象的な模様のトンボだった。

洗濯物を干し終わっても、
トンボはまだ、壁にとまったままだった。


昨日の朝――。

洗濯物を干していたら、
また同じトンボがやってきて、壁の同じところにとまった。

干し終えても、とまったままだった。


そして今朝――。

新聞を取りに玄関を出たら、
そのトンボが飛んできて、玄関のすぐ脇にとまった。

郵便受けの新聞を取って、
玄関に向き直った瞬間、ある記憶がよみがえって足が止まった。

何年も前に、もっと田舎で暮らしていた海の幼児期、
庭に出るたびに、あかとんぼがどこからともなくやってきて
まるで私にまとわりつくみたいに、
しばらく周りを飛ぶ、ということが何日か続いて、
とても不思議な思いをしたことがあった。

誰だったか覚えていないのだけど、後日その話を誰かにした時に、
「死んだ人がトンボになって帰ってくる」という言い伝えがあるのよ、と教えてもらった。

もう失くしたけど、その後、
インターネットで確かにそういう体験談が書かれているのを読んで、
保存したこともあった。

そして、いま、珍しい模様の茶色のトンボは
うちの玄関のすぐそばの水色の壁にじっと停まったまま動かない。

にい、ちゃん……?

そういえば先週、私たち夫婦が、
兄の闘病と看取りでついつい放置してあった父の遺品の片付けに、
もう誰も住むことのない私たち兄弟の実家に行った日にも、
「あれは、きっと、にいちゃんからのメッセージだったんだね」と
あとで夫婦が語り合うような、思いがけない品物が出てきた。

親父が死んで、そのすぐ後に自分が死んで、
なにもかもお前に行ってしまって、悪いな…。

あれは、たぶん、兄からのそういうメッセージだった。

そして、いま、そこに……。

にいちゃん、きてくれたの?

おまえ、だいじょうぶか、って……、きてくれたの?

胸がじいん、として、
涙がこみ上げてくる。

だいじょうぶだよ。
ちゃんと、やってるから。

立ったまま、心の中で話しかけてみる。

返ってくるものは何もない。
トンボはじっと壁に停まったまま。
羽根だけが、かすかに風にそよいでいる。

2ヶ月前に死んだ兄なのなら、
言いたいことがいっぱいあるような気がする。

でも、そこに来てくれたというだけで、
言いたいことは、もう何もないような気もする。

しばらく、心の中で話しかけてみたけど、
トンボはそのままじっと停まっている。

もしかしたら、声に出さないと分からないのかな。

そう思いつき、小声で言ってみる。

「にいちゃん、だいじょうぶだよ。
ちゃんとやっとるし。ちゃんとやるから。

あのことだって、このことだって、
沢山はできないけど、なんとか、できることだけはするから。

だから、だいじょうぶだって」

それでもトンボは動かない。

「じゃあね。もう行くよ」
玄関をあけて、家に入った。

何か言いたいことがあったのかな。
せっかく来てくれたのに、ちょっと冷たかったかな。
まぁ、妹だからな。かんべんな。

にいちゃん、また来てくれるかな。
また、どこかで会えるといいな。


         ――――

お昼にここまでを書いて、
しばらく寝かせてアップしようと思い、

午後になって、洗濯物を取り込むためにベランダに出たら、
私が出るのと同時に、あのトンボが飛んできた。

パタパタと羽根を動かしながら飛んできて、
ふわりと、私がちょうど手を伸ばしていた先のピンチ・ハンガーにとまった。

「にいちゃん。 にいちゃんなんじゃね?」

トンボは、羽根をパタパタさせながら、
ハンガーの上をあっちからこっちに、こっちからそっちに飛び移ってから、
(それは、楽しそうな、嬉しそうな動きに見えた)

私の前にゆるやかなループを描き、飛んでいった。



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