Pharaoh事件から「“本当の私”を残したい」自殺幇助のナルシズム「自己教」の指摘

Spikedというサイトに、Kevin Yuillという人が、
健康なのにスイスで自殺した75歳の看護師 Gill Pharaohさんのケースに触れて
「自殺幇助のナルシズム」という論考が掲載されている。



Gillさんの、「ちょっとくたびれてきてはいるけど、
まだ私だと人にちゃんと分かってもらえる今の自分のままで
みんなに覚えておいてほしいから」という自殺の理由について、

著者は、西洋社会の自殺幇助を巡るナルシシズムの典型ととらえ、
しかし、それは幻想に過ぎない、として
以下のように述べる。

We can neither control how people remember us nor can we preserve a moment in time. There is no perfect moment or ideal physical presence, no ‘real me’, because life is a process, constantly unfolding. We continually learn and change, and the ‘authentic’ self cannot be captured at one specific time. Nor is a ‘perfect’ or merely ‘good’ death meaningful to the deceased. Killing oneself does not preserve anything – it destroys the prospect of further experiences and interactions.

我々には、自分が人にどういうふうに記憶されるかをコントロールすることも
ある一瞬の時間を保存することもできない。

パーフェクトな瞬間というものも、理想的な身体的存在というものも、
「本当の私」などというものも、存在しない。
それは生きるということが常に展開しつつあるプロセスだからだ。

我々は常に学び変わり続けるのだから、
「真正の」自己というものを、ある特定の時間において捕えることなどできない。

同様に、親しい者を亡くした人々にとって意味のある
「パーフェクトな」あるいは、ただ「良い」死というものも、ない。

自分を殺す行為によって守れるものは何もない。
ただ、それ以上の経験と人との関わりの可能性を壊すだけである。


(結局、「死ぬ権利」も「コントロール幻想」の一環ですね……)


著者は
GillさんのようなPAS合法化の活動家がやっているのは
「自己教」という宗教の作り直しだという。

その宗教は、
人生を前より生きやすいものにしてくれてきた前の世代への恩義も、
これからの世代に残すべきレガシーも意に介さず、
ただただ自分がどのように見られるか、を重視し、
社会はそれを映す鏡とみなす。

著者に言わせれば、看護師だったPharaohさんなら
わざわざスイスまで行かなくても、確実に死ぬ方法は知っていたはず。

自分の決断を責めないでほしいと書くくらいなら、
スイスへ行って死にますと公言することなく、
ひっそりと自殺することだってできたはず。

それでも、自殺幇助を求める人たちは、
自分の苦しみや決断が公に承認されることを求める。

The narcissist feels a constant need to be noticed, to be recognised, to have his or her feelings validated and find some reflection of his or her self in the world. If the narcissist is fearful, then the world must do something about it.

ナルシストは常に目を向けてもらい、尊重してもらい、自分が感じていることを正当だと受け止めてもらい、世の中に自分の自己が反映されていると感じられることが必要なのだ。ナルシシストに不安があるなら、その不安に対して世の中は対応しなければならないのだ。


で、この論考の結論は、

Gill Pharaoh’s story shows that a culture that encourages us to escape from the final stages of life will inevitably encourage us to escape from the pains of old age and infirmity. But, as my grandfather used to say: old age is tough, but it still beats the alternative.

ギル・ファラオさんのニュースから分かるように、我々に人生の最終段階から逃避せよと説く文化は、結局は老いや病いの苦しみから逃避せよと説くことになる。しかし、私の祖父がいつも言っていたように「年を取るのも楽じゃないが、それでもやっぱり死ぬよりはいい」。
(ゴチックは spitzibara)


The narcissism of assisted suicide
Kevin Yuill
Spiked, August 11, 2015


ここに書かれているのに近い感想を
私は去年秋のブリタニー・メイナードさんの事件の時に持ったことがあった。

自殺という、本来はとてもプライベートな問題を
世界中に宣言することによってパブリックな問題にしてしまうことの意味は、
もちろん彼女を広告塔として利用したい人たち(C&Cとか)にとっては
政治的にとても大きいのだろうけど、

メイナードさん本人にとって、その意味とは
どこにどのようなものとしてあるのだろう、というふうに。

特に、彼女がいったんは宣言した11月1日の自殺について
「今はまだその時ではないのかもしれない」と揺らぎを見せた時、

プライベートな事柄に留め置いた中で揺らぐのと、
世界中から「果たしてこの人は本当に宣言通りの日に自殺するのか」と注視されている中で、
C&Cのような合法化ロビーに取り囲まれて、揺らぐのとでは、
「11月1日に自殺すると決断した」ことの意味も、
それを「今はまだ」と考え直すことの意味も、
全く違うものになりはしないのだろうか、というふうに。