ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ: 第8章
これまでのシリーズ・エントリーで批判的に振り返ってきたように、
個々のケースをめぐる議論の細部については、
原著初読の時から多々の疑問や不満を抱えていた私が、
個々のケースをめぐる議論の細部については、
原著初読の時から多々の疑問や不満を抱えていた私が、
それでもこの本を日本で紹介したい、と考えたのは、
総体としてこの本が説いている、
メッセージに強く賛同したため。
メッセージに強く賛同したため。
その辺りを最終第8章から拾っておきたい。
医療をめぐる意思決定に関わるすべての関係者のあいだに信頼関係を育み、客観的に検証可能なデータに依拠するように勧め、明確でオープンなコミュニケーションを培うこと……
(p.305)
(p.305)
「それにもかかわらず」と、後者の引用箇所は以下のように続く、
そして、
また、
ラリー・マカフィーの事例のように、社会制度が障害を生み出しているという現実をより徹底的に理解することで、[障害をもつ]個人にとっての本当の問題とは必ずしも身体的な障害を持っているという不幸ではなく、障害を生み出す社会構造、すなわちそのなかでは意味のある人生を送る可能性が閉ざされてしまうような社会構造から逃れたいという要求なのだということが、生命倫理学者たちにもわかるようになるだろう。こうした盲点の可能性を認識し、以前は見逃していたデータの熟考を保障するための行動を起こすことが、生命倫理学者たちが[障害者コミュニティとの]和解へ向かう次のステップになる。
(p. 317 ゴチックはspitzibara)
(p. 317 ゴチックはspitzibara)
医療の世界も、そこに「埋め込まれた」生命倫理学も、
「生活(LIFE)の中にその一部として医療がある」という当事者の視点と体験から学び、
自らの「医療の中に生活(LIFE)がある」という感覚だけでは
視野に捕捉しきれていない範囲があることに気づき、その「盲点」を「認識」せよ、
という呼びかけなのだと思う。
「生活(LIFE)の中にその一部として医療がある」という当事者の視点と体験から学び、
自らの「医療の中に生活(LIFE)がある」という感覚だけでは
視野に捕捉しきれていない範囲があることに気づき、その「盲点」を「認識」せよ、
という呼びかけなのだと思う。
(つまりspitzibaraの言葉でいう「懐中電灯」であることの自覚、ですね)
そして、その主張の他にもう一つ、
私がこの本をどうしても翻訳・紹介したいと考えた大きな理由がある。
私がこの本をどうしても翻訳・紹介したいと考えた大きな理由がある。
それによって人格や尊厳を傷つけられてきた人々が
それらの世界のあまりの「届かなさ」に焦れながら、
なおも、今度こそ届かせずにおかない、と挑んでこうとする時、
そこに、蓄積された傷つきとフラストレーションが
むしろ痛みや悲しみであるはずのものを「怒りの話法」へと転じてしまうこと。
それらの世界のあまりの「届かなさ」に焦れながら、
なおも、今度こそ届かせずにおかない、と挑んでこうとする時、
そこに、蓄積された傷つきとフラストレーションが
むしろ痛みや悲しみであるはずのものを「怒りの話法」へと転じてしまうこと。
今度はそれが
「ほらみろ、あんな攻撃的で冷静を欠いた奴らと議論なんかできるか」と
さらに、もともとの軽侮の正当化に使われてしまうこと。
「ほらみろ、あんな攻撃的で冷静を欠いた奴らと議論なんかできるか」と
さらに、もともとの軽侮の正当化に使われてしまうこと。
そして、高みに留まる側はさらに「相手にしない」という軽侮の姿勢を強固にし、
またも「届かない」まま踏みつけられた側はさらに人としての尊厳を傷つけられ、
フラストレーションを重ねること。
またも「届かない」まま踏みつけられた側はさらに人としての尊厳を傷つけられ、
フラストレーションを重ねること。
それは、本当は
世の中のありとあらゆる差別の根っこに潜んでいる構図であり、
世の中のいたるところで強い側が弱い側をアリンコのように簡単に踏みにじりながら、
そのことに無感覚、無自覚なまま、傷ついた人たちの反応をさらに差別の理由に転じては、
繰り返している構図でもあるのだ、と思う。
世の中のありとあらゆる差別の根っこに潜んでいる構図であり、
世の中のいたるところで強い側が弱い側をアリンコのように簡単に踏みにじりながら、
そのことに無感覚、無自覚なまま、傷ついた人たちの反応をさらに差別の理由に転じては、
繰り返している構図でもあるのだ、と思う。
私自身が個人的にこの同じ問題に苦しんできたから、
何年も、この問題をぐるぐると考え続けてきた。
考えながら、私にも様々な医療職や研究者との「出会い」があった。
何年も、この問題をぐるぐると考え続けてきた。
考えながら、私にも様々な医療職や研究者との「出会い」があった。
そして、このごろは、
やはり人と人として「出会う」以外に道はないのかもしれない、ということを考えている。
やはり人と人として「出会う」以外に道はないのかもしれない、ということを考えている。
例えば、このエントリーで書いてみたようなこと ↓
麻生幸三郎論文「インフォームド・コンセントと権利擁護」から「出会い」と「対話」の希望について 1(2016/2/7)
麻生幸三郎論文「インフォームド・コンセントと権利擁護」から「出会い」と「対話」の希望について 2(2016/2/7)
「医師の視点」との「出会い」から「人が出会うということ」の可能性について考えてみる(2016/2/8)
麻生幸三郎論文「インフォームド・コンセントと権利擁護」から「出会い」と「対話」の希望について 1(2016/2/7)
麻生幸三郎論文「インフォームド・コンセントと権利擁護」から「出会い」と「対話」の希望について 2(2016/2/7)
「医師の視点」との「出会い」から「人が出会うということ」の可能性について考えてみる(2016/2/8)
ウーレット自身が、「出会い」から学び、変わることのできた人だ。
多くの学者仲間からは
障害者問題に手を染めても箔はつかないし、
損をするばかりだからやめておけ、と忠告された、という。
障害者問題に手を染めても箔はつかないし、
損をするばかりだからやめておけ、と忠告された、という。
それでも10年間の研究を経て、
彼女が問題を見る目はまるきり変わった。
彼女が問題を見る目はまるきり変わった。
第2段落に書かれていることを3つに分けて抜いてみたい。
今の私は、違った見方をするようになっている。障害者コミュニティの専門家たちの言うことに耳を傾け、彼らの学術的な著作を読み、論争となる点について彼らと議論することによって私は、自分が受けた大学及び大学院の教育にもかかわらず、自分が障害の問題についてはいかに無知であったかということを思い知らされた。
「専門職」は、
専門性が高い知識を持つ自分は何でも分かっている「蛍光灯」だと、どこかで思い込んでいる。
専門性が高い知識を持つ自分は何でも分かっている「蛍光灯」だと、どこかで思い込んでいる。
専門性とは「狭く深い」からこそ意味があるはずなのに、
おうおうにして「専門家」は自分の「狭さ」を「広さ」とカン違いする。
おうおうにして「専門家」は自分の「狭さ」を「広さ」とカン違いする。
ウーレットは自分が障害の問題については「懐中電灯」だと、気づいたのだと思う。
私の認識をもっと変えたのは、障害をもっている友人たちや同僚たち、学生たちと食事を共にし、ワインを飲みながら恋愛や子育てやその他人生一般についてゆっくり語り合う時間を重ねたことである。お互いに自分をさらけ出して語り合うことは、すべてを変えてしまうほど意義深い経験だ。
「互いに自分をさらけ出して語り合」うというのは
安全な「専門家の土俵」の高みに留まったまま、
相手を「治療」や「教育」や「支援」や「研究」の「対象」と見下ろしていたのではできないことだ。
安全な「専門家の土俵」の高みに留まったまま、
相手を「治療」や「教育」や「支援」や「研究」の「対象」と見下ろしていたのではできないことだ。
それは互いに対等な人として相手と「出会う」ということだから。
それは、自分を守ってくれる「専門職の権威」をいう衣を脱ぎ、
自分が属している「土俵」から降りていく勇気、
弱点を抱えた一人の人としての自分を晒す勇気を求められることだけれど、
自分が属している「土俵」から降りていく勇気、
弱点を抱えた一人の人としての自分を晒す勇気を求められることだけれど、
でもウーレットは、
専門職の側こそが率先してそれをやるべきだ、と言っているのだと思う。
専門職の側こそが率先してそれをやるべきだ、と言っているのだと思う。
なぜなら、
だから、それを体験的に学んだ彼女は、この本で主張する。
専門性やアカデミズムの権威の陰に隠れて
自らは無傷でい続けようとすることをやめ、
これまで「対象」としてきた障害当事者と人として「出会い」、
そこから学び、自らを問い直す姿勢を獲得することによって、
「当事者と対等に向かい合い、共に悩み、考える」姿勢の涵養に向かい、
「LIFEを支える医療」と「障害に配慮した生命倫理学」へと飛躍を目指せ、と。
自らは無傷でい続けようとすることをやめ、
これまで「対象」としてきた障害当事者と人として「出会い」、
そこから学び、自らを問い直す姿勢を獲得することによって、
「当事者と対等に向かい合い、共に悩み、考える」姿勢の涵養に向かい、
「LIFEを支える医療」と「障害に配慮した生命倫理学」へと飛躍を目指せ、と。
=====
最後に一つだけ、
簡単に指摘しておきたいウーレットの議論の限界として、
簡単に指摘しておきたいウーレットの議論の限界として、
彼女にとっての「障害」とは、
基本的には「身体障害」に留まっているように思えること。
基本的には「身体障害」に留まっているように思えること。
これまでの「ウーレットの批判的再読」エントリー ↓
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 1: 序章~第2章 (前)(2016/3/8)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 1: 序章~第2章 (後)(2016/3/8)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 2: 第3章(2016/3/18)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 3: 第4、第6章 (前)(2016/3/24)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 3: 第4、第6章 (後)(2016/3/24)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (前)(2016/3/31)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (中)(2016/3/31)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (後)(2016/3/31)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ: 第8章(2016/4/5)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 1: 序章~第2章 (前)(2016/3/8)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 1: 序章~第2章 (後)(2016/3/8)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 2: 第3章(2016/3/18)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 3: 第4、第6章 (前)(2016/3/24)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 3: 第4、第6章 (後)(2016/3/24)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (前)(2016/3/31)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (中)(2016/3/31)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (後)(2016/3/31)
ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ: 第8章(2016/4/5)