金満里の「いのちの大きさ」 vs ピーター・シンガーの「いのちの価値」
劇団(変態ではなく)態変の機関紙「イマージュ」2月号から(2015/4/6)
昨年の相模原の障害者殺傷事件を意識して作られた作品とのこと。
今回もまた「イマージュ」1月号を送ってくださる方があり、その中で
金満里さんが36年前に沖縄で劇団態変の着想を得た瞬間のことを書いておられる一節が
とても心に響いてきました。
金満里さんが36年前に沖縄で劇団態変の着想を得た瞬間のことを書いておられる一節が
とても心に響いてきました。
2つの文章が、なんとも鮮やかな対照を描いているように思えたので。
まずは金さんの文章から。
……そこ(spitzibara注:マリュドゥの滝)へ行く小さな観光船が停まる浦内川の川岸に36年前、私はたまたま一人車イスで佇み大自然の脅威へ対峙する機会を得た。その時の大自然への恐怖で、小さくひ弱な自分の存在と、大木にしがみつくようにして生きる蟻の姿が、同じようだと思った。
それは、天地がひっくり返る体験だった。具体的に書こう。
大きな木は、自分の体に蟻が這おうが何をしようがお構いなく、自分が生命の全てを形成する一つの宇宙を持っている。蟻は蟻で、そこが木であるかどうかはお構いなく、自分が生命の全てを形成する一つの宇宙を持っている。普通の関係では、これを大宇宙と小宇宙の関係、というのだろうが、それは傍目で見た一方的な見方なのだ。一つの宇宙観には、大も小もなく、それぞれに独立した宇宙観を持っている。それが必死に生命の営みとして活動していて、絶妙な循環の中にいるだけではないだろうか。そう思うとそれまでの大自然への恐怖感は消え、宇宙的存在としての自然と自分を等価に受け止める<宇宙観の逆転>を実感する瞬間だった。すると次の瞬間、<身体障碍の自分は、その身体のままで、身体表現をやればいい。きっと、やるんだな。>と閃いたのだ。
それは、天地がひっくり返る体験だった。具体的に書こう。
大きな木は、自分の体に蟻が這おうが何をしようがお構いなく、自分が生命の全てを形成する一つの宇宙を持っている。蟻は蟻で、そこが木であるかどうかはお構いなく、自分が生命の全てを形成する一つの宇宙を持っている。普通の関係では、これを大宇宙と小宇宙の関係、というのだろうが、それは傍目で見た一方的な見方なのだ。一つの宇宙観には、大も小もなく、それぞれに独立した宇宙観を持っている。それが必死に生命の営みとして活動していて、絶妙な循環の中にいるだけではないだろうか。そう思うとそれまでの大自然への恐怖感は消え、宇宙的存在としての自然と自分を等価に受け止める<宇宙観の逆転>を実感する瞬間だった。すると次の瞬間、<身体障碍の自分は、その身体のままで、身体表現をやればいい。きっと、やるんだな。>と閃いたのだ。
私にとって印象的だったシンガーのインタビューの一節は以下。
On adopting out a [hypothetical] Down syndrome child: For me, the knowledge that my [hypothetical] child would not be likely to develop into a person whom I could treat as an equal, in every sense of the word, who would never be able to have children of his or her own, who I could not expect to grow up to be a fully independent adult, and with whom I could expect to have conversations about only a limited range of topics would greatly reduce my joy in raising my child and watching him or her develop.
(仮想的な)ダウン症候群の子どもを養子に出すことについて
私にとっては、(仮想的な)自分の子どもが成長しても、自分とあらゆる意味で対等な存在と扱うことができる人格とはならないし、自分の子どもを持つこともできず、ちゃんと完全に自立した成人に成長することもなく、我が子と限られた話題についてしか会話できないと分かっているなら、子どもを育て、その子が成長するのを眺める楽しみは大いに減じられることになるだろう。
On dogs, pigs, and disabled babies: Most people think that the life of a dog or a pig is of less value than the life of a normal human being. On what basis, then, could they hold that the life of a profoundly intellectually disabled human being with intellectual capacities inferior to those of a dog or a pig is of equal value to the life of a normal human being? This sounds like speciesism to me, and as I said earlier, I have yet to see a plausible defence of speciesism. After looking for more than forty years, I doubt that there is one.
犬、豚、そして障害のある乳児について
ほとんどの人は、犬または豚の命は正常な人間の命よりも価値が低いと思っている。それでは、そういう人たちは、いったいどういう根拠で、重い知的障害があって犬や豚にも劣る知的能力しか持たない人たちの命に、正常な人間と同じ価値があると考えられるのだろう。これは私には種差別と聞こえる。前にも言ったように、それなりと思える種差別の擁護論というのを私はまだ聞いたことがない。40年以上も見てきて、まだ一つとして存在していないと思う。
(仮想的な)ダウン症候群の子どもを養子に出すことについて
私にとっては、(仮想的な)自分の子どもが成長しても、自分とあらゆる意味で対等な存在と扱うことができる人格とはならないし、自分の子どもを持つこともできず、ちゃんと完全に自立した成人に成長することもなく、我が子と限られた話題についてしか会話できないと分かっているなら、子どもを育て、その子が成長するのを眺める楽しみは大いに減じられることになるだろう。
On dogs, pigs, and disabled babies: Most people think that the life of a dog or a pig is of less value than the life of a normal human being. On what basis, then, could they hold that the life of a profoundly intellectually disabled human being with intellectual capacities inferior to those of a dog or a pig is of equal value to the life of a normal human being? This sounds like speciesism to me, and as I said earlier, I have yet to see a plausible defence of speciesism. After looking for more than forty years, I doubt that there is one.
犬、豚、そして障害のある乳児について
ほとんどの人は、犬または豚の命は正常な人間の命よりも価値が低いと思っている。それでは、そういう人たちは、いったいどういう根拠で、重い知的障害があって犬や豚にも劣る知的能力しか持たない人たちの命に、正常な人間と同じ価値があると考えられるのだろう。これは私には種差別と聞こえる。前にも言ったように、それなりと思える種差別の擁護論というのを私はまだ聞いたことがない。40年以上も見てきて、まだ一つとして存在していないと思う。