地域医療ジャーナル「無益」シリーズ②:「無益な治療」論再考1 「無益」と「潜在的不適切」



「無益な治療」論再考1:「無益」と「潜在的不適切」

 1月号の記事「『無益な治療』論とDNAR指示」で書いた「無益な治療」論について、最近とても興味深い論文を見つけて読みました。「医学的無益」の定義をめぐる議論が新たに大きく動いているようです。そこに日本の「終末期医療」や「高齢者の医療」「尊厳死」をめぐる議論の危うさが、改めて透けて見える気がしましたので、今回は「医学的無益」概念について改めて。

1月号で触れたように、「無益な治療」をめぐる生命倫理学の議論は延々と続いてきながらも、長く「医学的無益性」そのものに一致した定義はありませんでした。1月号で言及したアリシア・ウーレットは『生命倫理学と障害学の対話-障害者を排除しない生命倫理へ』(安藤泰至 児玉真美 訳 生活書院 2014、原著は BIOETHICS AND DISABILITY, Alicia Ouellette, 2011)において、これまでに登場した主な定義として、以下の3つを挙げています。

生理学的無益:たとえばウィルス感染の患者には抗生剤を処方しても望まれる生理学的効果は生じないので無益とする

質的無益:患者が人としてその治療から利益を得て、なおかつその利益を喜びとすることができないなら無益とする

量的無益:たとえば100回のうち1回しか効果が見込めないなど、治療の効果に一定の蓋然性がなければ無益とする

 その上で、ウーレットは「医師には無益な治療を提供する必要がないならば、臨床現場の問題として、また方針や法律の問題としても、『無益性』の定義についての合意があることが不可欠と思われる」が、実際には「無益性」はいまだに学問的にきちんと定義されていない(p.119)と指摘しています。

 このように定義が曖昧なままの「無益性」概念が医療現場で広まっていくことに対する大きな懸念が、私が「無益な治療」論を追いかけることになった根っこにあったわけです。

 例えば1月号で「最もラディカルな『無益な治療』法」として簡単に紹介した米国テキサス州の「テキサス事前指示法(TADA)」は、治療の中止を認める法律の適用対象を終末期あるいは不可逆な患者としています。TADAの「不可逆」の定義とは以下。

(A) 治療できる可能性はあるが、治癒することも取り除くこともできない。

(B) 自分のことを自分でできない要介護状態のままになったり、自分のことを自分で決められないままになり、同時に

(C) 汎用されている治療基準に即して提供される生命維持治療なしには死を免れない。

(ウーレット p. 109)

 しかし、この要件では、例えば四肢麻痺で人工呼吸器に依存している人や、重度の脳性麻痺で経管栄養に依存している人は当てはまる可能性があります。この曖昧さについて、ウーレットは「テキサス議会は、医療提供者が治療の提供を拒んでもよい状況を個別に定義する努力を放棄して、治療が医学的に見て妥当かどうかの判断を医学的アセスメントにゆだねているのである」( p.119)と分析しています。

 障害者運動からも「何が『無益な治療』かという点が、こんなにも曖昧なままでは、現行のテキサスの無益な治療法は、『QOL』を理由に重症障害のある人からいくらでも生命維持を差し控えたり中止したりしてよいと言っているようなもの」(ウーレット p.117 National Catholic Partnership on Disabilityの声明からの引用)との批判が出ています。

 私が「死ぬ権利」議論と「無益な治療」論が同時進行していく事態に一貫して指摘してきた危うさも、これまで何度か書いてきたように、「救命可能性」という指標がいつのまにか「QOL」という指標と混同されていく懸念にあります。

 最近、2015年に米国で「医学的無益」を定義する画期的なポリシー・ステートメントが出た、という情報に接したので、さっそく読んでみました。集中治療室(ICU)で患者や代理決定権者から、医療サイドとしては行うべきではないと考える治療を求められた場合に、どのように対応すべきかをめぐって論議があることから、米国の胸部学会、救命救急看護学会、胸部内科学会など複数学会が合同で検討委員会を立ち上げ、その検討から最終的に出されたポリシー・ステートメントです。

"An Official ATS/AACN/ACCP/ESICM/SCCM Policy Statement: Responding to Requests for Potentially Inappropriate Treatment in Intensive Care Units”

Gabriel T. Bosslet, et. al.


 このステートメントの主要な提言としては、

(1) 先を見通して早め早めに積極的に(プロアクティブに)コミュニケーションを図るとか、早期に専門家のコンサルテーションを入れるなど、医療機関は治療をめぐって争議が解決困難となるのを防ぐための戦略を備えておくこと。

(2) 相反する倫理的な考察を経てなお、行うべきでないと医師には思われる治療であっても、患者が求めている効果が少なくとも何がしかはもたらされる可能性がある場合には、その治療には「無益」ではなく「潜在的に不適切」という形容を用いるべきである。困難事例での解決は、プロセス重視の姿勢で、公正なプロセスによって計られるべきである。

(3)「無益」という文言の使用は、求められている介入では意図される生理学上の目的の達成はありえない、という稀な状況にのみ限定されるべきである。(ゴチックはspitzibaraによる。以下、同様)

(4) 延命技術はどのような時には使うべきではないか、に関する方針や法整備について、医療職は一般の人を巻き込んで議論を牽引し、解説すべきである。

 とりわけ(2)と(3)の提言において、「無益」と「潜在的に不適切」という概念を分けることによって、「医学的無益性」概念をQOLから切り離そうとしていることが、このステートメントの野心的な試みといってもいいでしょう。

 ステートメントもウーレットと同じく、これまでの各種学会のガイドラインでも各地の法律でも無益性の定義が一定していない問題を指摘しています。そのため、これまで「無益な治療」争議と称されてきた係争事件の多くは、単に医療をめぐる技術的な問題ではなく、何が適切かをめぐる価値判断の対立だった、と分析します。そこで、このステートメントは、「無益」の定義をウーレットが挙げていた最も狭義の「生理学的無益」に限定し、「無益」をQOLなどの価値判断から切り離してみせたわけです。

 委員会のメンバーの一人で、ハーバード大学生命倫理学者(小児科医)のロバート・トゥルーグらは、その意義について、この定義であれば「資源の利用可能性や関係者の価値観を問わず、どの患者にも行うべきではない」ことになる、と、今年2月のAMA Journal of Ethicsのコメンタリー、"What to Do When There Aren’t Enough Beds in the PICU”で、分かりやすく解説しています。

 さらにステートメントでは、(2)の係争解決へのプロセス重視のアプローチについても、誰か一人の価値観だけが不当に重視されることがないこと、透明性、合法性、アカウンタビリティ、さらに上へと訴えていける機会の保障の重要性が述べられています。

 特に、手続き上の公平性の重視という点では、こうした事例では患者が自己決定できない状態にありがちなこと、主治医を自由に選択できないこと、他の医療職を探そうにも病状の為にできにくいことなど、患者サイドが弱い立場に置かれていることも強調されています。

 もっとも、時間的に意思決定が急がれる状況で、患者サイドの要求する治療が明らかに通常の医療の範疇を超えていると医師に確信がある場合は、可能な限りの検討手続きを経ながら、治療の提供を拒否すべきである、と特例的な状況を認めます。

 ステートメントの中で最も重要な箇所と私が感じたのは、以下の下りでした。

…… it is ethically untenable to give complete authority for treatment decisions to either patients/surrogates or individual clinicians. Instead, clinicians and patients/surrogates should work collaboratively to make treatment decisions and, in the face of disagreement, should first augment efforts to find a negotiated agreement, including involving expert consultants. In the rare case in which intractable conflict develops, clinicians should pursue a process-based approach to conflict resolution.

治療をめぐる意思決定の全権を患者または代理決定者あるいは個々の医師のいずれかに与えることは、倫理的に許容できない。そうではなく、医師と患者または代理決定者が共に協働して治療をめぐる意思決定を行うべきであり、意見が相違する場合には、専門家のコンサルテーションを入れるなど、話し合いによって合意に至る努力を、まずは強化すべきである。解決困難な争議に発展するような稀な事例では、医師はプロセス重視のアプローチによって解決を目指すべきである。

 1月号の記事の最後に書いたように、永らく「決めるのは患者か医師か」「決定権はどちらのものか」といった対立的な枠組みを中心に議論されがちだった「無益な治療」論に、やっと二者択一ではない「意思決定の共有」という方向性が明確に提示されたのだなぁ、と、ちょっとした感慨があります。が、もちろん、思うことはそれだけではありません。

そこで、「『無益な治療』再考 2」で、上記のトゥルーグらのコメンタリーをひもときながら、さらにこの問題を考えてみたいと思います。