認知症の人々にもっと良い痛みの管理を

カナダ医師会雑誌CMAJのサイトに9月23日に先行掲載された論説
認知症の人々にはもっと良い痛みの管理が必要」がとてもよかった。


内容は、大体以下のような感じ。
(面倒なので、よく分からない専門的な箇所はすっとばしてあります)

認知症の人は他の人ほど痛みを感じないとの思い込みがあり、
そのために認知症の人の慢性痛は理解されないまま十分な管理がされていない。
この傾向は認知症が重症になればなるほど顕著となるが、
重症だから痛みを感じないというものではなく、
このような思い込みは捨てなければならない。

痛みを感じる小径線維が減少することから
高齢者では若年層に比べて痛みの閾値が高くなるが、その一方で、
脳の内分泌的な感受性が鈍るため、痛みに対する許容度も低下する。

そもそも痛みがもともと主観的な評価と報告しかできない症状であり
認知症の人では、本人が訴えることは難しいが

言葉だけでなく、顔の表情やベッドでの姿勢、日中活動での行動などの丁寧な観察によって
痛みを察知し、痛みとその強さを知るための方法はある。

認知症の人ではオピオイドその他の薬物の許容度が下がり、
一方で薬の副作用や相互作用が起きやすくなり、
腎臓肝臓も老いて機能が低下するなど、
薬の処方には特別な配慮を要する。

薬物療法以外にマッサージや理学療法、行動療法、神経ブロックなどにも
更なる研究が必要だし、患者の状態に応じたアウトカム計測の方法も研究する必要がある。

それを考えると、介護施設の入所している人や認知症の人が
ランダム実験から排除されるのが当たり前になっているのは問題。

認知症の人の痛みに適切なアセスメントを行うには
ベッドサイド・ケアのスキルを向上させることと、
パーソン・センターで、細かく目配りのあるアプローチが必要。

その患者さんのことを良く知っていて、
日常的にベッドサイド・ケアを行っている人がアセスメントを行うべきであり、
その医療提供者には、プロトコルの範囲で痛みの治療への裁量が与えられるべき。


ここの最後のところ、spitzibaraとしても、
特にお医者さんたちに、知ってほしいこと。

「お医者さんだから、医療職の中で最も専門性が高いから、
特定の患者さんが痛みを感じているかどうかが分かる」んじゃない。

大体において、医師は特定の患者さんについては
病院でも施設でも「最も知っていない人」であることが多い。

せめて、そのことを謙虚に自覚してもらえないものか、と
spitzibaraは常々思う。

そして、この論文、
最後の下りが、いいんだな。とっても。

特にspitzibaraがゴチックにしたところ。

……A person with dementia may be losing cognitive ability, but some aspects of personhood must still be respected – namely dignity, life-story and family connection. To this list we should add perception of pain and suffering. We have sufficient evidence and a professional obligation to control the pain of people of dementia. A person with dementia is not a nonperson and should not be cared for as though this were the case. To the extent that we as caregivers treat a person with dementia as a nonperson, the therapeutic relationship and the personhood of the caregiver are also diminished.

……認知症の人は認知能力は失いつつあるかもしれないが、その人の人格のある面、すなわち尊厳、人生の物語そして家族とのつながりは、なおも尊重しなければならない。このリストに、さらに痛み苦しみが分かる、ということを追加すべきである。認知症の人が痛みを感じていることには十分なエビデンスがあるし、我々にはそれをコントロールする専門職としての義務がある。認知症の人はノンパーソンではなく、まるでノンパーソンであるかのようなケアのやりかたをすべきではない。ケアする者である我々が認知症の人をノンパーソンとして扱うなら、それだけ治療的な関係もケアする側の人格も同様に損なわれるのである。