医師は障害については知っていても障害者の生活について知っているわけではない

昨日、オーストラリア、タスマニア州議会に提出されていた
医師による自殺幇助(PAS)合法化法案が
13対11の僅差で否決されました。

それを受けて、オーストラリアの骨形成不全症と思われる女性が
死なせてほしいと願いつつ老衰で死んだ祖父の看取りの体験を経てもなお、
タスマニア州の法案否決を歓迎する思いをGuardianに書いている。

オレゴン尊厳死法を利用して死ぬ人たちの理由の多くが
実際の痛苦や痛苦への恐れではなく、自律や尊厳の喪失であることなど、
合法化の背景にあるのは実際には障害を回避したいとする思いであることを指摘しつつ、

しかし、それらはあくまでも障害のない人の思い込みでしかなく
障害のある生を実際に生きている障害者にとってのQOLの実感は
障害のない人の想像とは異なっている、と説き、

障害のある人たちがナーシングホームで暮らさずとも
支援を受けて地域で自立生活を送れる社会であれば
障害者のQOLは決して悪くはないはずだと主張している。

特に私が印象的だったのは以下の箇所。

What we as a society think we know about what it means to live as a disabled person comes from cultural representations of disability seen through a non-disabled lens. And we, as people with disability, rarely get to tell our own stories.

障害のある人として生きることがどういうことか社会の人々は分かっているつもりになっているが、それは、あくまでも障害のない人のレンズを通して見た障害がいろいろに解釈されているに過ぎない。その一方で、私たちが障害のある本人としての体験を語らせてもらえる機会は滅多にない。

Also, social attitudes towards disabled people come from a medical profession that takes a deficit view of disability. This is my major concern with legalising assisted death; that it will give doctors more control over our lives.

また、障害のある人々に対する社会の姿勢は障害を欠陥とみなす医療職の影響に影響されている。それこそが私が幇助死の合法化に対して抱いている大きな懸念である。つまり、合法化されれば我々の生に及ぶ医師らの支配がさらに強化されることになるのだ。

As a disabled person who has had a lot to do with the medical profession, I can tell you that this is the space in which I've experienced some of the very worst disability prejudice and discrimination. Doctors might know about our biology, but it doesn't mean they know about our lives.

医療職と密接に付き合ってきた障害者として、医療の現場でこそ私は最もひどい偏見と差別を経験してきた。医師は障害者の体については知っているかもしれないが、だからといって私たちの生活(生きている現実)について知っていることにはならない。