ロイス・ローリー 『ギヴァー 記憶を注ぐ者』 2

『ギヴァー』について、もうちょっと詳しく書いておきたいと思いながら
果たせずにいるうちに図書館の返却期限が来てしまったので、大急ぎ、

この物語で描かれているコミュニティで行われる「解放」についてのみだけは
メモしておきたいと思って。

この作品の概要については こちらに ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63663221.html

このコミュニティの人々は「死ぬ」のでも「殺される」のでもなく
「解放される」のです。

ちょうど『わたしの中のあなた』でドナーとして生まれてくる人々が
何度かの臓器提供を経て「終了」していたように。

『ギヴァー』の世界の人々が「解放」されるのはどのような時かというと、

悪いことをした人は「解放」される。

例えば、訓練中に誤って
支持されていない区画を飛んでしまった<パイロット>について
コミュニティの委員会のスピーカーは事態が収集されたのち、
「言ウマデモナク、彼ハ解放サレルデショウ」と告げる。

コミュニティには多くの規則があり、
規則違反を3回犯した人は罰として「解放」される。

年をとった人は、人生をまっとうしたとして
祝福のセレモニーの後で「解放」される。

自ら「解放」を希望し、委員会に承認されれば
祝福とお別れのセレモニーの後で解放されることも可能。

発達に遅滞や異常のあるニュー・チャイルドは「解放」される。

自分の住んでいるコミュニティが気に入らなければ
「よそ」に移りたいと委員会に対して要望することはできるが、
実際に「よそ」に移るために「解放」された人の
その後を聞いたものは誰もいない。


その他、書き留めておきたいこととして
このコミュニティでは、

・実際の動物はまったく存在しないので
人々は「ドウブツ」の実際を見たことすらない。
ここでは「ドウブツみたい」という慣用句は
「教養のない人や要領の悪い人、うまく適応できていない人」を表す言葉。

・性欲は(そういう言葉は使われていないけれど)
「適切な治療を施す必要」がある「高揚」と呼ばれる状態を引き起こすため、
思春期になって「高揚」を体験すると、それをコントロールするための錠剤を
毎朝すべての人が飲むことが義務付けられており、「高揚」を体験すると
即座に委員会に報告しなければならない。

・ちょっとした怪我でも、委員会に通報すれば
すぐに錠剤をもらえて痛みをとってもらえる。

・12歳になった子どもたち全員が長老委員会から仕事を割り当てられる。
このコミュニティでは子どもを生むのは<出産母>と呼ばれる職種。
大事な仕事とされながら、敬意は払われていない。
課せられた3回の出産までは優雅な暮らしが約束されるが
その後の人生は<労働者>として送ることになる。

・生まれた子ども「ニュー・チャイルド」は
全員が「養育センター」に集められて、<養育者>によって育てられ、
長老委員会の決定によってしかるべき「家族ユニット」にあてがわれる。

・このコミュニティでは職業も住まいも配偶者も子どもも、
みんな長老委員会の判断であてがわれる。

・配偶者も長老委員会の承認が必要で、
2人のあらゆる要素(気質、活力、知性、嗜好)が合致し、
「完璧な相互作用」が働くように慎重な観察を経て検討・決定される。
子どもは規則にのっとって申請すれば2人まで、
ニュー・チャイルドの中から長老委員会の選択によって与えられ、
「家族ユニット」として、暮らす。

・子どもが成人して独り立ちしたり自分の家族ユニットを持つと、
それまでの親の家族ユニットは必要ではなくなり、
年をとった親は「老年の家」に入って暮らす。

・この世界には「色」がない。
「色」だけではなく「選択」できるものは一切ない。
それは「まちがった選択から人々を護らなければならない」から。

・だから、すべては(人を含めて)「同一化」されている。

・そして、このコミュニティの人々は記憶を持たない。
 コミュニティで記憶を保つ役割を担っているのは、ただ一人。
 それが「ギヴァー」。


……そこでは予期せぬことは何も起こらない。不便なこと、異常なことはいっさい発生しない。色彩のない、痛みのない、そして過去のない生活だ。
(p.233)

……<同一化>と予測可能性に支配された生活……
(p.242)


私は『死の自己決定権のゆくえ』
「コントロール幻想」という言葉を使ってみたけれど、

ここにあるのは「コントロール幻想」が広がっていった先にできていく世界の
一つのモデルなのでは……? と思った。

そして、その世界で、次の「ギヴァー」となるよう
ギヴァーから記憶を受け継ぐ「レシーバー」に任命された主人公のジョナスは
少しずつ人々の記憶を引き受けていくにつれて、
自分の「家族ユニット」の父と母に向かって問わずにいられない。

「僕を愛してる?」と。

しかし、彼の問いは両親の失笑によって応じられてしまう。

コミュニティにとって、彼の両親にとっても、
「愛」などという抽象的な言葉は
何も具体的な意味をもたない「不適切な」言葉でしかないのだ。

ちょうど功利主義者の思考実験が
「愛」をカウントの外に置き去りにして
数値への置き換えと論理だけで整然と出来上がっているように。

私は『死の自己決定権のゆくえ』の一説で
以下のように書いてみました。

“コントロール幻想”の世界の救いのなさは、何もかもが合理で整合し割り切れすぎていることだと思う。
……中略……
“コントロール幻想”の合理の世界の救いのなさは、合理で割り切れないもの、かけがえのないものが失われていくことだと思う。そこでは人間の力を超えるものが存在しなくなり、人のはからいを超えた大いなるものが失われていくことだと思う。……中略……その先にあるのは、人が「いのち」に対して首を垂れることをしなくなった世界、祈りをなくした世界なんじゃないだろうか。それは、愛をなくした世界、結局は誰も幸せになれない世界ではないだろうか。
(p.201)