高谷清氏の「重症障害者の意識」を巡る考察
『人間発達研究所通信』2009年3月号の「発達論的エッセイ⑦」
タイトルは『「外在意識」と「内在意識」』(p. 3-8)
タイトルは『「外在意識」と「内在意識」』(p. 3-8)
このエッセイの冒頭、高谷氏は
高校生の時に、意識不明状態の友人を見舞ったところ、
その友人が元気になった時に見舞いの際のことを理解し記憶していることに驚いた、
という個人的な経験を語っている。
高校生の時に、意識不明状態の友人を見舞ったところ、
その友人が元気になった時に見舞いの際のことを理解し記憶していることに驚いた、
という個人的な経験を語っている。
「彼は内面に完全な意識をもっていたのだが、
その意識を外部に表出できなかったのだ」
その意識を外部に表出できなかったのだ」
(まさに、『脳死』と誤診されて臓器摘出されるところだったザック・ダンラップと同じ!)
高谷氏は、
その友人のような「意識喪失」と「植物状態」と「脳死」の違いを解説したうえで、
臨床医学において「意識」状態を分類するツールである、グラスゴー・スケールなどについて
「これらは意識の状態を外界からの刺激による反応の程度として評価するものであり、
内面的な意識については述べていない」と指摘する。
その友人のような「意識喪失」と「植物状態」と「脳死」の違いを解説したうえで、
臨床医学において「意識」状態を分類するツールである、グラスゴー・スケールなどについて
「これらは意識の状態を外界からの刺激による反応の程度として評価するものであり、
内面的な意識については述べていない」と指摘する。
そして、以下のように定義し、
・外在意識――外部から判断できる、外部に開いている意識
・内在意識――外部からは計り知れないが内部に存在するであろうと思われる意識
・内在意識――外部からは計り知れないが内部に存在するであろうと思われる意識
以下のような問題を指摘している。
そして高谷氏の結論。
……「植物状態」は意識のない状態であるという「定義」や「先入観」に惑わされず、事実が明らかになることを期待したい。同時に、私たちは実際に「重症心身障害児者」や重い障害ある人に取り組むときには「意識の存在」を十分に考えて取り組まなくてはならないと思うのである。それは「感覚的な意識」でもあるし、場合によっては「認識的な意識」かもしれないのである。
……いったん「植物状態」という診断名がついてしまうことによって、一人の生身の患者が「植物状態の定義どおりの常態にある人」という抽象的な存在、むしろ「定義」そのものに置き換えられてしまうのではないだろうか。
その人が人として生きてそこに在りつつ生起させている多様な変化や反応や表情は、その「定義」によりその人には「起こるはずがないこと」である以上、問題にもならなくなる。そこに開けられるはずの窓があり、中から必死に声なき声を振り絞っている人がいたとしても、いったん「ここには誰もいない」と張り紙がされてしまうと、もう外からは誰も耳を済ませてみようとか、そこに近づいてみようとすらしなくなるのだ。
(p.116)
その人が人として生きてそこに在りつつ生起させている多様な変化や反応や表情は、その「定義」によりその人には「起こるはずがないこと」である以上、問題にもならなくなる。そこに開けられるはずの窓があり、中から必死に声なき声を振り絞っている人がいたとしても、いったん「ここには誰もいない」と張り紙がされてしまうと、もう外からは誰も耳を済ませてみようとか、そこに近づいてみようとすらしなくなるのだ。
(p.116)
もう一つ、この本を書いた後でぐるぐる考えていることがある。
それは、例えば「意識喪失」「植物状態」「脳死」が議論される時に、
これらは「常に正しく診断されているもの」という前提で議論が進んでいき、
その前提で制度が作られていくのだけれど、本当にそれでいいのか、という疑問。
これらは「常に正しく診断されているもの」という前提で議論が進んでいき、
その前提で制度が作られていくのだけれど、本当にそれでいいのか、という疑問。
医療現場で臨床実践している医師らには
そういう前提をしても安全なだけ十分な知識と正しいアセスメントを行う技量と
これらについては慎重に慎重を重ねてアセスメントしなければならないという高い意識とが
本当に兼ね備えられているのだろうか、という疑問。
そういう前提をしても安全なだけ十分な知識と正しいアセスメントを行う技量と
これらについては慎重に慎重を重ねてアセスメントしなければならないという高い意識とが
本当に兼ね備えられているのだろうか、という疑問。
「どんなに手を尽くしてもとりきれない痛苦がある」という前提で
尊厳死法制化の議論が進められていく一方に、でも実は
多くの医師は「どんなに手を尽くしても」というほど緩和に熱心でもなければ、
実際にはその技術も十分ではない……という現実が存在するのだとしたら、
尊厳死法制化の議論が進められていく一方に、でも実は
多くの医師は「どんなに手を尽くしても」というほど緩和に熱心でもなければ、
実際にはその技術も十分ではない……という現実が存在するのだとしたら、
その現実の方こそが真の問題のありかではないのか、という疑問にも通じていくし、
そこにある本質的な問題というのは
実は「臨床医療の、ある方面への関心の薄さ」という共通項の方なのでは?
実は「臨床医療の、ある方面への関心の薄さ」という共通項の方なのでは?