森達也『A3 上』


アマゾンの内容紹介

新しい視座で迫る、オウムと日本人の本質
あの事件はなぜどのように起きたのか。ドキュメンタリー『A』『A2』でオウムの側から日本社会を描いた著者が、裁判、元信者たちへの取材を通して、事件の真実の姿を追求。第33回講談社ノンフィクション賞受賞。

判決の日、東京地裁で初めて完全に「壊れている」麻原を見た著者は愕然とする。明らかに異常な裁判に、誰も声をあげようとしない。麻原彰晃とその側近たちを死刑にすることで、すべてを忘れようとしているかのようだ―戦後最凶最悪と言われたオウム事件によって変わってしまった日本。麻原とオウムを探り、日本社会の深層を浮き彫りにする。第33回講談社ノンフィクション賞受賞作。


なるほどなぁ。
私もオウムに関しては完全にノセられていたなぁ、と痛感させられた。

著者は一貫して、
オウムだからといって特例扱いをして
人々が被告人に対する明らかな人権侵害を許容し、
その家族の人権侵害にすら疑問を感じなくなっていく
社会の異常性を訴え続けている。

例えば、麻原の三女が合格した大学から軒並み入学拒否をされた件について

 出自によって入学を取り消す。これは明確な差別だ。しかしあらゆる差別問題に取り組むはずの部落解放同盟を含め、ほとんどの人権団体はこの事態に抗議しない。異を唱えない。声をあげない。反応しない。まるですっぽりとエア・ポケットに入っているかのように、明らかな異例が明らかな常態になっている。
 オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会のうち枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。
(p. 180)

……法廷で精神が崩壊する過程を衆人の目に晒しながら鑑定すらされない常態が続いてきた父親と、教育を受ける権利を当たり前のように拒絶される子供たち。社会を震撼させた犯罪の中心にいた家族とはいえ、いくらなんでも普通なら「悪人ではあっても公正な裁判を受ける権利はある」とか、「子供には何の罪もない」など、当たり前の建前が機能するはずだ。
 結局のところ建前は建前だ。余裕があって初めて機能する。余裕がなくなれば剥きだしの本音が優先される。これもまたある意味で当然だ。ならば考えねば。なぜこの社会は、これらの本音を剥きだしにしなければならないほどに、余裕をなくしかけているのかを。
(p.274)


そして、

 確かに僕も、仮に麻原が彰晃が正気を取り戻したとしても、法廷の場で事件の真相が解明されるという全面的な期待はしていない。その可能性はとても低いと考えている。
 でもだからといって、手続きを省略することが正当化されてはいけない。「期待できない」という主観的な述語が、あるべき審理より優先されるのなら、それはもう近代司法ではない。裁判すら不要になる。国民の多数決で判決を決めればよい。国民の期待に思い切り応えればいい。ただしその瞬間、その国はもはや法治国家ではない。例外は判例となり、やがて演繹される。人は環境に強く馴致される生きものだ。例外はいつの間にか例外として認識されなくなる。だからこそ司法は原則を踏み出すべきではない。
(p.335-6)


著者が訴えているのは
民主的なルールに基づいてプロセスを踏み、理を尽くした冷静な議論をするのではなく
社会に暗黙のうちに「どうせ」が共鳴し、それが共有され広まっていくことによって、
その空気の勢いだけが、物事が理不尽に押し流され進められていく、
社会のおぞましさなのだと思う。

この本で一番恐ろしかったのは
以下の下りだった。

 マクドナルド店舗における椅子は座り心地が悪い。だから誰も長居はしない。でも席を立つほとんどの人は、自分の自由意志で店を出たと思い込んでいる。長居をしたいという自分の自由意志が店によって侵害されたと思う人はいない。アメリカの社会学者であるジョージ・リッツァは、その著書『マクドナルド化する社会』でこんな事例を挙げながら、人の自由意志の危うさに警鐘を鳴らす。
(p. 215)

臓器提供や生殖補助技術や
尊厳死原発や、その他さまざまな問題の周りで起こっていること――。