続報から考えるMcMath事件、「脳死は死」と「無益な治療」論の問題点 (後)

前のエントリーからの続きです)


それから、この論考について特筆しておきたいこととして、Drakeが
メディアでコメントしているのも生命倫理学者も白人男性だという点を鋭く指摘していること。

(かつて「アシュリーが美しい白人の女の子でなかったら、世論はどうなっていたか」
という問いが頭に思い浮かんだたように、「ジャハイが美しい白人の女の子だったら、
世論はどのように反応していたか」という問いが浮かんだ。

楚々とした美人の白人のお母さんがテレビに出てきて、「あの子は手術が怖いと訴えてたんです、
やらせなければよかった」と自分を責めさいなみ、「扁桃腺の手術でこんなことになるなんて」と、
事態の理不尽と深い悲しみを訴えていたら、世論はどうなっていただろう?)


米国の医療には
タスキギ実験を始めとして黒人に対する人権差別の歴史があり、
現在でも白人と黒人の受けられる医療には格差があるデータが様々に出ている。

人種差別のために十分な医療を受けることができずにきて
医療への不信感を抱いている人たちなら、医療を拒否されることに対して
白人男性のコメンテーターや学者には想像もできないほどの警戒感を抱くだろう。

(実際、黒人の臓器提供率が低いことの背景には
こうした歴史からくる医療への不信感があると言われている)

Drakeが書いているのはそういうことだ。

これを読んで思い出したのは、
Truogが語っていた脳ヘルニアの新生児のケース。

ホームレスの両親がどうしても無益性の説明を受け入れず、やむなく心肺蘇生を実施。
それまで、病院との関係性が決して良くなかった両親が
子どもが亡くなった後で手を尽くしてもらえたことに感謝してくれた、という事例 ↓


このエントリーで私は以下のように書いている。

たぶんTruogが感じていて、まだ意識できていない、だから言語化できていないことは、一つには、
親の心理もまた、病院や医師や医療スタッフとの関係性の中にある、ということ
なんじゃないだろうか。

このケースで両親がホームレスだったということを考えると
親と病院や医療スタッフとの関係性もまた、それ以前に
親と社会とのより大きな関係によって影響されている、とも言えるのかもしれない。


そして、ここで重要なこととして
指摘しておかなければならないと私が思うのは、

Drakeの視点がこの差別を受けてきた立場の気持へと向かうのは、
彼ら障害者もまた同じところに置かれてきたからに他ならない、ということ。

Drakeはこの問題を巡って2年前にPopeと激しい論争を展開している ↓
NY法科大学の終末期医療シンポめぐる論争 1(2011/11/27) (ここから3本)

この論争で際立っているのは、

あくまでもアカデミズムの高みに留まって歩み寄ろうとしない生命倫理学の目線の高さと、
対等の議論の機会を許されず、声を届かせられずに苛立つ当事者――。


これこそ、今、McMath事件で繰り返されている図なのではないだろうか?

医療も生命倫理学も、
障害者の声にも黒人の声にもホームレスの声にも
きちんと耳を貸すことなど、なかった。

「だからこそ医療と生命倫理学は障害者の声に耳を傾け、そこから学ぶ必要がある」と
“Bioethics and Disability”で説いているのが、アリシア・ウーレット。

上記の論争のきっかけになったシンポでも、
ウーレットの発表のテーマは

Context Matters: Disability, the End of Life, and Why the Conversation Is Still So Difficult
「大切なのは文脈: 障害、終末期、そして対話は何故こんなにも困難なのか」

このウーレットの発表テーマこそ、
そのままMcMath事件の本質に通じていると私は思うんだけれど。


ちなみにウーレットの“Bioethics and Disability”の概要は、こちらに ↓
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)

各章ごとの詳細はこちらのエントリーにリンクしてあります ↓
Ouellette「生命倫理と障害」最終章:障害に配慮した生命倫理に向けて(2012/5/18)

Drakeはウーレットさえも理解が不十分で差別的だと非難するけれど、
私はそれでもやっぱりこの本は重要なメッセージを含んでいると思う。

アシュリー事件を追いかけていた頃、私は、
世界が「メディカル・コントロール」の時代へと向かっているのでは、という
漠然とした不安を抱えこんだ。

それから後も、ずっと「無益な治療」論を追いかけながら、
医療に「救うべき命」と「救うに値しない命」を選別する権限が託されていくのではないか、
という懸念を膨らませてきた。

McMath事件では、
生命倫理学者の言葉がどうしてこんなに暴力的に聞こえるのだろう、と
ずっと不可解だったのだけれど、

高名な(どちらかといえば穏健派と見られている?)生命倫理学者らが
この事件で演じている役どころを見て、そして
上記のDrakeの鋭い指摘を読んでみると、

医療はすでにその権限を託されて、
その権力・権限の番犬としての役割を生命倫理学者が担っているのか……? とすら見えてくる。

けれど、

もしもそうだとしたら、
「託した」のは、いったい誰なのだろう?