続報から考えるMcMath事件、「脳死は死」と「無益な治療」論の問題点 (後)
(前のエントリーからの続きです)
(かつて「アシュリーが美しい白人の女の子でなかったら、世論はどうなっていたか」
という問いが頭に思い浮かんだたように、「ジャハイが美しい白人の女の子だったら、
世論はどのように反応していたか」という問いが浮かんだ。
という問いが頭に思い浮かんだたように、「ジャハイが美しい白人の女の子だったら、
世論はどのように反応していたか」という問いが浮かんだ。
楚々とした美人の白人のお母さんがテレビに出てきて、「あの子は手術が怖いと訴えてたんです、
やらせなければよかった」と自分を責めさいなみ、「扁桃腺の手術でこんなことになるなんて」と、
事態の理不尽と深い悲しみを訴えていたら、世論はどうなっていただろう?)
やらせなければよかった」と自分を責めさいなみ、「扁桃腺の手術でこんなことになるなんて」と、
事態の理不尽と深い悲しみを訴えていたら、世論はどうなっていただろう?)
人種差別のために十分な医療を受けることができずにきて
医療への不信感を抱いている人たちなら、医療を拒否されることに対して
白人男性のコメンテーターや学者には想像もできないほどの警戒感を抱くだろう。
医療への不信感を抱いている人たちなら、医療を拒否されることに対して
白人男性のコメンテーターや学者には想像もできないほどの警戒感を抱くだろう。
(実際、黒人の臓器提供率が低いことの背景には
こうした歴史からくる医療への不信感があると言われている)
こうした歴史からくる医療への不信感があると言われている)
Drakeが書いているのはそういうことだ。
これを読んで思い出したのは、
Truogが語っていた脳ヘルニアの新生児のケース。
Truogが語っていた脳ヘルニアの新生児のケース。
ホームレスの両親がどうしても無益性の説明を受け入れず、やむなく心肺蘇生を実施。
それまで、病院との関係性が決して良くなかった両親が
子どもが亡くなった後で手を尽くしてもらえたことに感謝してくれた、という事例 ↓
それまで、病院との関係性が決して良くなかった両親が
子どもが亡くなった後で手を尽くしてもらえたことに感謝してくれた、という事例 ↓
Truogの「無益な治療」講演(2011年11月10日)後(2011/12/15)
このエントリーで私は以下のように書いている。
たぶんTruogが感じていて、まだ意識できていない、だから言語化できていないことは、一つには、
親の心理もまた、病院や医師や医療スタッフとの関係性の中にある、ということ
なんじゃないだろうか。
このケースで両親がホームレスだったということを考えると
親と病院や医療スタッフとの関係性もまた、それ以前に
親と社会とのより大きな関係によって影響されている、とも言えるのかもしれない。
親の心理もまた、病院や医師や医療スタッフとの関係性の中にある、ということ
なんじゃないだろうか。
このケースで両親がホームレスだったということを考えると
親と病院や医療スタッフとの関係性もまた、それ以前に
親と社会とのより大きな関係によって影響されている、とも言えるのかもしれない。
そして、ここで重要なこととして
指摘しておかなければならないと私が思うのは、
指摘しておかなければならないと私が思うのは、
Drakeの視点がこの差別を受けてきた立場の気持へと向かうのは、
彼ら障害者もまた同じところに置かれてきたからに他ならない、ということ。
彼ら障害者もまた同じところに置かれてきたからに他ならない、ということ。
この論争で際立っているのは、
これこそ、今、McMath事件で繰り返されている図なのではないだろうか?
Context Matters: Disability, the End of Life, and Why the Conversation Is Still So Difficult
「大切なのは文脈: 障害、終末期、そして対話は何故こんなにも困難なのか」
「大切なのは文脈: 障害、終末期、そして対話は何故こんなにも困難なのか」
このウーレットの発表テーマこそ、
そのままMcMath事件の本質に通じていると私は思うんだけれど。
そのままMcMath事件の本質に通じていると私は思うんだけれど。
Drakeはウーレットさえも理解が不十分で差別的だと非難するけれど、
私はそれでもやっぱりこの本は重要なメッセージを含んでいると思う。
私はそれでもやっぱりこの本は重要なメッセージを含んでいると思う。
それから後も、ずっと「無益な治療」論を追いかけながら、
医療に「救うべき命」と「救うに値しない命」を選別する権限が託されていくのではないか、
という懸念を膨らませてきた。
医療に「救うべき命」と「救うに値しない命」を選別する権限が託されていくのではないか、
という懸念を膨らませてきた。
けれど、
もしもそうだとしたら、
「託した」のは、いったい誰なのだろう?
「託した」のは、いったい誰なのだろう?