McMath事件: 医療過誤と「生命維持停止」を巡る”倫理”問題のカラクリ

McMath事件についてのこれまでのエントリーは以下。



1月4日のエントリーでこの事件で気になることの4つ目として
私は以下のように書いた。

Jahiさんが受けたのはアデノイド切除の手術。
その術後の合併症で大量の失血から心臓発作を起こしたとなれば、
そこに病院側の過失はなかったのだろうか。

米国のベタンコート訴訟は
がんの切除手術は成功したにもかかわらず、
術後にICUで人工呼吸器が外れる事故で無酸素脳症となり、
永続的植物状態となった70代男性の生命維持をめぐる訴訟だった。

Betancourt訴訟上訴審の判決文を読む:植物状態からの治療中止を認めず、判断の一般化も回避(2013/3/15)

またカナダのラスーリ訴訟も、
脳の良性腫瘍の手術は成功したものの
術後に細菌性の髄膜炎から植物状態と診断された患者への
生命維持続行をめぐる訴訟だった。

Rasouli訴訟でカナダ最高裁、医師らの上訴を棄却:治療中止も同意を必要とする治療(2013/10/19)

病院側の過失がチラつく事例でこうした訴訟が起きているということが
前から気になっている。


今日教えていただいた以下の記事によると、
カリフォルニア州には患者が医療過誤で死に至った場合には
賠償額の上限を25万ドルと定めた1975年成立の
医療被害補償改革法(Medical Injury Compensation Reform Act,MICRA)があるとのこと。

MICRAでは

If a patient goes without oxygen to the brain for several minutes but remains on life support, the hospital could face a multimillion-dollar verdict if a jury determines the injury was due to a medical error. However, if a patient is taken off life support, the hospital currently would face a financial liability of, at most, $250,000.

もしも患者が数分間、酸欠状態になっても生命維持が続行されていると、陪審員がその損傷が医療過誤によるものだと認定した場合、病院には何百万ドルもの賠償が言い渡される可能性がある。しかし、患者から生命維持が取り外されれば、現行法の元で病院に生じる金銭的な賠償責任は上限25万ドルなのである。



なお、ネバダ州とカリフォルニア州
医療被害補償改革法(Medical Injury Compensation Reform Act,MICRA)については
以下の日本語記事に詳しい ↓



4日のエントリーでリンクしたベタンコート事件はNJ州の訴訟だったけれど、
病院側の弁護士が「家族はこの後で医療過誤訴訟を起こそうと考えていて、
そのために患者を生かしておいて賠償金額を吊り上げようとしている」と
家族が生命維持続行を求める動機は金銭目的だと非難していた記憶があって、

その時に、
そもそも病院側が医療過誤訴訟が予測される事態だと認識しているのだったら
せめて「責任上、生命維持を含めて丁寧にケアさせてもらいます」という態度になれば
こんな係争は起きなかったんじゃないのかなぁ、とチラッと思ったし、

その時には、
医療過誤の事実から目を背けたいが故の生命維持停止の強行なのかと
考えてみたりもしたのだけれど、

なるほど……。

じゃぁ、ベタンコート事件で病院側の弁護士が言っていたことも、裏返せば、
病院側が生命維持停止して患者にさっさと死んでもらいたいのだって、
その動機は立派に金銭目的だったってことでは?

家族にしたら、
医療過誤でこうなったとしか思えないのに、病院から誠実な対応をしてもらえるどころか、
賠償金額減額目的で被害者であるはずの患者を死なせようとかかってこられるなんて、
こんなに業腹でやりきれないことはないと思う。


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もう一つ、McMath事件での「脳死は死」を巡る論争で
すごく不思議に思えてきたのだけれど、

臓器移植における「デッド・ドナー・ルール」の撤廃を説いている倫理学者の中には
脳死概念そのものが科学的に確立された死ではなく
臓器移植のために操作された死の概念に過ぎないと主張してきた人たちがいる。

例えば、以下のエントリーで拾った情報ではRobert TruogとNorman Fost.
臓器移植で「死亡者提供ルール」廃止せよと(2008/3/11)


ピーター・シンガー
「死の脳死基準は便宜上のフィクションにすぎない」
脳死(臓器移植?)は殺人だ」と書いて、

つまるところ
脳死は死」ではないと主張している。

それならば、少なくともこの3人の生命倫理学者は
カプランやポウプがMcMath事件に関連してしきりに
脳死は科学的な死」「すでに死体」と発言していることに対して、
出てきて異を唱えるべきなんではないかと思うのだけれど、

そこで口をつぐんでいるのが、

Jahiさんのような重症障害を負った人については
脳死であろうとなかろうと、どうせ生命維持には値しないノンパーソンだから、とか

デッド・ドナー・ルール撤廃の論拠としてのみ
脳死はいかようにも操作可能で科学的な死ではないと主張したいだけであって、
それ以外の文脈で、例えば無益な患者への治療停止のアリバイとしての
脳死は科学的な死」は、こうしてまかり通ってかまわないと考えているためだとしたら、

それは余りにご都合主義なダブスタで、論理的整合性がないと思うし、
学問的な誠実という点で、いったいどうなんだろう……?