「死ぬ権利」の次は、未承認の実験的新薬を「トライする権利」

「死ぬ権利(the Right to Die)」の次は
the Right to Try トライする権利――?

何をトライするかというと、
FDAがまだ認可していない実験的な新薬。

その権利の理念は、
コロラド州の議員さんの言葉に簡潔に要約されている。

For people who are facing death and have one last hope, they should have a choice to try every possible drug.

死に直面している患者さんに一つだけ最後の望みがあるというなら、そういう人には試し得るすべての薬を試してみる選択肢があって然り。

また、アドボケイトの一人は
それ以外の選択肢がもうない患者にとっては、
普通の人よりも大きなリスクだって喜んでとるのに、
FDAの動きは遅すぎるのだという。

そういう実験的な新薬を試してみる権利を
死に瀕している患者さんに認めようという法案が
コロラドミズーリルイジアナの3州の議会を通過した。
いずれも投票結果は全会一致。

Art Caplanは
80年代にエイズ患者が未承認の薬をテキサス州に持ち込んだ実話とされる
Dallas Buyers Clubという映画に触れて、法案について以下のように説明する。

the idea that you have to get around the indifferent and cruel government to get access to drugs.

薬を手に入れるには、無関心で冷酷な政府は迂回しなければならない、という考え。


実際には、FDAには compassionate use という特例制度があって、
命にかかわる重病の人がそれ以外に治療の選択肢がない場合には
申請があれば、使用を認めてきたのだという。

ただ、その手続きが煩雑なことと、
製薬会社がコストやサプライの問題や、製造者責任を懸念して
協力したがらないことが多く、FDAには強制はできない。

今回のthe Right to Try 法案は
この例外制度を簡略化してFDAの関与を外したもの。
製薬会社の同意と医師の推薦状でOKとする。

対象となるのは最初の安全性試験を終えて、
次のフェーズに進んでいる薬。

FDA
安全性と効果が確認されていない薬から国民を守るというFDAの役割が
損なわれることを懸念。

反対派も、
安全性と効果が未確認の薬へのアクセスが認められることは
結局は薬の開発プロセスを損ない、結果的に
それで助かる人よりも多くの人を害することになる、と。



重病で、可能な治療はすべてやりつくして
それが効果なく、死と直面している人やその家族が、
開発中の有望な薬があると知れば、最後の望みとして
その薬を使ってみたくなることは想像も理解もできる。

それは日本でドラッグ・ラグの問題に取り組んでいる人たちの思いでもある。

だから、そういう切実な思いが
こうした動きを生み出していくことは分かるし、
共感できないわけでもない。

なんとなく引っかかってしまうのは、

ちょっと前に
どこかで「終末期の患者を実験に供することになる」という批判を見たことがあって、
その時には通り過ぎてしまって分からなかったのだけれど、
あれはこの法案の文脈で言われたことだったのでは? と思うのと、

確かにこの記事には
製薬会社は何かが起こったら逆に認可申請プロセスに影響するなど
いろいろな要因でしり込みするんじゃないかという予測がされているけど、
それはあくまでもFDAに睨まれるのを意識してのことだから、
それだけでもないんじゃないかな、だって
喜んでリスクをとってくれる被験者が自ら名乗りを上げてくれて、
しかもそれを後押しする法律まであるとなれば、という気がすることが一つ。

でも、何よりも漠然とした不快感がやってくるのは
それが the right to tryという概念を引っ張り出して主張されていること。

やっぱりこれは自己決定としての死ぬ権利 the right to die があって、
そこから続いて、その先に出てきた概念なんでは?

その主張のベースのところに、
the right to die 議論の対象となっている状態の人の場合には
その他一般の人と比べて、事情が切迫しているだけに、
それだけ大きなリスクをとる用意があるから、
それを自ら承知で自己決定するなら、それが許されるのは権利、
というリーズニングがあるような気がする。

そして、誰も言わないけど、その最初のところには、
どの治療も効かなくて死に瀕している人なら、
それ以上に失うものはもう何も無いから、リスクをとらせたって構わないじゃないか、
という暗黙の主張もあるような気がする。

それが「それ以外に治療を受けられない途上国や貧困層の患者なら喜んでリスクを引き受けるし、
それも(形の上で)自己決定なら倫理的な問題はない」とでもいった、
現在もありそうな暗黙の主張と通じていくように感じられたりもする。

一方で、それは
生殖補助医療の周辺で言われている「生殖の権利」にも
通じていくものがあるような気もして、その点は
反対派の誰かが言っている「個人の健康を国民全体の健康より優先する」ように、
それによって社会の仕組みや価値観が大きく変わっていく可能性がありながら
個人のニーズを満たすことが「権利」として主張され、通っていくことへの
漠然とした抵抗感もある。

(たぶん出生前・着床前遺伝子診断でも、
どこかに「知る権利」という正当化があるような気もするし)

そして、よくよく考えてみたら、
大きなムーブメントとなって主張が認められていくような「○○する権利」概念って、
科学とテクノの利権構造や各国の経済事情を利するような方向の権利ばっかり……? とも。

実は一番イヤ~な感じがしているのは、
そこのところかもしれない。

世の中には、
大声で言われる「権利」と、決して大きくは取り上げられることのない「権利」があり、

権威をまとって言われる「利益」と、
そういう場では決して言われることのない「リスク」や「危害」がある。

そうした概念や文言の操作によって、
自分たちの言っていることだけに人々の耳目を集めておき、
「そこでは何が言われていないか」から人々の耳目をそらせながら
自分たちの都合の良い方向に議論を捻じ曲げていく役割をになっているのが生命倫理学……?

というふうに
アシュリー事件からこちら、私には見えてきているんだけれど、

まさか、そのうちに“アシュリー療法”だって
「知的レベルにふさわしい身体で生きていく(重症心身障害児者の)権利」として
主張されるようになったりするのかな。


【8月7日追記】
製薬会社が実験的な薬を重病の人に提供する「思いやり特例」を巡る議論。ビデオ。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/11084