「人はアドボケイトか専門家のどちらかでしかありえないか」Dick Sobseyの法廷体験から考える

ちょっとした必要があって、

アシュリー事件でめぐり合ってから
前のブログでもずいぶんお世話になったDick Sobsey氏のサイトを
久しぶりに覗きにいった。



Sobsey氏は
カナダ、アルベルタ大学の教育心理学の教授で
ジョン・ドセター医療倫理センターのディレクター。
障害者への虐待が研究テーマ(だと思う)。

重症心身障害のある息子さんがある。

これまでの関連エントリーは非常に沢山あって、
いずれの発言も本当に鋭くて示唆に富んでいる。




で、今日また、どうしても紹介したい! と思ったのは、

Sobsey氏がトップページに書いていた、
「私の頭の両方の側から話すということ」という短い文章。

Speaking out of both sides of my head

Recently, I was being cross-examined in court as an expert witness on treatment and maltreatment of people with disabilities. My credentials were being challenged, and I was accused of being “an advocate.” The implication was that it is possible to be an advocate or an expert, but one can’t possibly be both. In other words, one can know something or one can care about something, but you can’t actually know about anything that you care about. I didn’t have the nerve to say it in court, but I suspect that the opposite may be true.

Everybody advocates for something and ultimately being “right” or “wrong” is an issue of the quality of the facts and arguments that we bring to the table.


私の頭の両方の側から話すということ

最近、私は裁判所で、
障害のある人々への虐待とそうでない扱いについて専門家として証言をして、
相手側からの反対尋問を受けていた。

そこでは私の専門家としての資格に疑義が呈されていた。
というのは、私は「アドボケイト」をやっていると非難されたのだ。

そこで相手方が言わんとしていたのは、
人はアドボケイトたることも専門家たることもできるが、
同時に両方たることは不可能だぞ、ということだ。

言い換えると、

あることについて分かっているということと、あることが自分にとって大切であるということとは、
それぞれ片方ずつなら可能だけれど、

人は自分にとって大切なことについては
(客観的に、の意?)わかることなどありえない、というのだ。

さすがに法廷で申し述べる度胸は無かったけれど、
私はその反対が本当じゃないかと思う。

誰だって何かのアドボケイトとして行動するし、

それが「正しい」か「間違っている」かは、
議論の俎上にどういう事実と主張を提示するか、その質が決める問題である。


まったくだなぁ。

大切に思うことだからこそ、
そのことについて深く知っているし、わかるんじゃないか。

障害者への虐待に心を痛めてきたSobsey氏だからこそ、
長年その問題と心血を注いで取り組んできて、
そういう人だからこそ知っている、わかっていることが
沢山あるんじゃないか。

まさに逆こそが本当じゃないか。

それに、
マジョリティや強い側に都合の良いアドボケイトなら
世の中に掃いて捨てるほどいて、

しかも
専門性なんか疑わしいような
牽強付会ミエミエの屁理屈を振りかざしていたりもするのに、
そういう人たちが「アドボケイトをやっている」と指差され非難されることは
不思議なことに、まず、ない。

そういえば、Eva Kittayがいつか
科学について知らない人間が科学のことを云々するのは許さないのに、
障害者について知らない人が障害者を論じることは
どうしてこんなにも簡単に許されてしまうのか、と怒っていたっけなぁ。

……なんてことを考えていたら、

上でリンクした2010年10月14日のエントリーで
Sobsey氏がピーター・シンガーらに向けて、こんこんと説いている言葉を思い出した。


知的障害のある人たちにも、
見ようともしないキミらには分からん形かもしれないが、
ちゃんと計画や望みというものがあり、

それはキミや私の計画や望みとは違うかもしれないけれど、
本人にとっては大切な計画であり望みなのだよ。

そんな人の計画や望みなど、どうせなんてことないと切って捨てるのは、
どうせ失うものが少ない人からは全部盗んでいったって構わないと言うようなものだ。

そのことが理解できないのも、Ashleyのありのままの姿が見えないのも、
キミたちが哲学の概念としての障害の方を
現実の障害者よりも重要視しているからなのだよ。


そうかぁ。

「哲学的概念という権威」のアドボケイト――。

あはは。

このフレーズを考えついたら
あの人やこの人の顔が浮かんできて、つい笑ってしまった。