「終末期だけを特別にしない意思決定の一般原則」Sheperd提案と、そこから重心の意思決定について思うこと

ヴァージニア大学の法学者/生命倫理学者のLois Shepherd
North Carolina Law Review誌に発表した論文“The End of End-of-Life Law”

ネットでは全文どころかアブストラクトも読めないのですが、
Popeの「無益な治療ブログ」によると、

終末期医療のみをその他の医療と切り離して
特別な基準や法を設けるのではなく、
終末期にも医療全般を通じて同一の姿勢で臨むべきだと主張しているとのこと。

私自身もずっと
拙著『死の自己決定権のゆくえ』やシノドスでの論考などで、
終末期医療の問題は、それ以前の医療と地続きの
医療そのものがどうあるべきかという問題だと主張してきたところ。

それもあって、
Shepherdが提案している「改革の青写真」を支える8つの一般原則が
とても刺激的に思えるので、以下に。


Principle 1: Respect and Care for the Patient Require Balancing Rather Than Rigidly Prioritizing Among Patient Instructions, Wishes, Values, and Interests

原則1:患者を尊重しケアすることとは、患者の指示、望み、価値観と利益を硬直的に序列化することではなく、それらの間のバランスをとることである。

Principle 2: All Patients Should Have a Surrogate Decision Maker, and the Same Standards of Decision Making Should Apply to All Surrogate Decision Makers

原則2:すべての患者に代理意思決定者がいるべきであり、またすべての代理意思決定者に同じ意思決定基準が適用されるべきである。

Principle 3: Requirements for Advance Documentation by Patients Should Be Minimal

原則3:患者による事前指示文書の要件は最小限に。

Principle 4: Binding Pre-Commitments Should Be Allowed Only Sparingly and for Compelling Reasons; They Should Not Be Required or Encouraged

原則4:意思決定以前からの関与の義務付けは、やむをえない理由がある場合に限って認めるべきであり、あらかじめの関与を義務付けたり推奨してはならない。
(ここは、論文そのものを読んでからでないと。現在の訳し方は間違っているかも)

Principle 5: Rushed Decisions That People Do Not or Should Not Want to “Live Like That” Should Be Avoided

原則5:人が「そういう状態で生きること」はすべきではない、または望むはずがないという性急な意思決定は避けるべきである。

Principle 6: Communication About Health Care Decisions Should Be Encouraged but Not Scripted by Law

原則6:医療をめぐる意思決定についてのコミュニケーションは推奨されるべきだが、法によって規定されるべきではない。

Principle 7: Appropriate Safeguards to Protect Patients with Diminished Capacity Are Needed

原則7:意思決定能力が低い患者を保護するための適切なセーフガードが必要。

Principle 8: Relief of Pain and Suffering Should Always Be Permitted and Considered an Important Goal of Care

原則8:痛み苦しみの軽減は常に許され、医療の重要な目的の一つと考えられるべきである。


論文そのものを読んでみないと、
それぞれの原則の背景にある考えがいまひとつ掴みにくいところもあるけれど、
(特に原則4は、訳し方も含めて、論文を読んでみないと意図がよくわからない)

賛同できるところが多々あるし、

実は、訳あって、このところ
重症心身障害児者の医療をめぐる意思決定のあり方について考え続けているので、

その関係からも、この原則の提案は刺激的で、
いろいろ考えさせられている。

今、私が一番気になっているのは、

重心児者の医療に限らず、この問題は
大きな意思決定が必要となった「(時)点」での問題として議論されがちだけれど、

でも、それは実は、
それ以前の日常の医療における、本人や家族を含めたチーム医療のあり方という
それ以前からの経緯を含めた「線」の問題なのではないか……ということで、

身近な問題として、簡単に言えば、
施設という閉鎖的な空間での日常の医療の中で、
本人や家族のICがどのくらい重視され尊重されているか、ということでもあるし、

そのことをグルグル考え続けていると、

その先には、
専門家だけではなく、親である私たちだって、
どれほど本人の意思や思いと真摯に向かい合ってきたのか、という、
ものすごく痛い問題とも直面せざるを得なくなる。

それは例えば、『支援3』
「母親が『私』を語る言葉を取り戻すということ」で書いてみたこととか、
以下のエントリーなどで考えてきたように、私にとっては
アシュリー事件との出会いから抱え続けている、親としての課題でもある。



専門家が
実は施設側の事情であることや
少なくとも本人たちのためだけではないことを
保護者に納得してもらいやすいように
「本人のため」と言い換えて説明してきたように、

保護者だって
本当は親の都合であったり、
少なくとも本人のためだけではないことを
「こういう子だから施設で暮らすのが本人のため」などと言って
自分の罪悪感から目をそらせてきた。

「本人のため」「本人の最善の利益」とは
本当は、それくらい欺瞞的になり得る、とても恐ろしい言葉だ。

「慈悲殺」の論理だって
「この子はこんな状態で生きているのは可愛そうだから、
殺してあげるのが本人のため」というのだ。

その恐ろしさを、
この言葉を使おうとする人はわきまえているべきだと思う。

意思決定の問題が単なる「手続き」論に堕してしまうとき、
どんな法律やガイドラインや原則や基準にも、
チェック項目化して思考停止につながるリスクがある。

上記のShepherdが試みているのも、
そのリスクに抗おうとする工夫の一つなのだろうと私は捉えてみるのだけれど、
この原則にすら、そのリスクはある。

専門職も親や家族も、
ただ「重心児者には自己決定が出来ないのだから、私たちが代理決定してもいい」と
勝手に決め付けてしまう前に、ちょっと立ち止まり、

自分は本人の意思や思いとどれほど真摯に向かい合ってきたのか、と
自らを常に問い返す姿勢を持ち続けることが、

たぶん、重心医療に限らず、また終末期に限らず、
法律やガイドラインや基準や原則を単なるチェック項目化して思考停止に陥らないための、
最善の方法なんじゃないだろうか。

でも、それは本当に痛くて苦しい営みになる。キリもない。
どうかすると今までの自分の生き方や今の自分の生活まで全否定するしかなくなって
どうにも身動きが取れない精神状態に陥ってしまうんだけど。

だから、どうしてもお茶を濁しながら、
我ながらご都合主義で姑息な「問い返し」でしかないことに忸怩たる思いもあるのだけれど。

それでも、この視点を手放してしまうことだけは、
いったん気づいた以上は決してしてはならないと
重い障害のある子どもの親として、やっぱり思うから、

せめて、
自分が施設に入れることを選択せざるを得なかった親であることの痛みと共に、
この視点にこだわりつづける痛みは、海の親として、引き受けていこう、と。

そして、
共に自らを問い返す痛みを担ってくれる専門家と出逢える体験があるならば、そのたびに、
私たち親は、子どもをこの世界に残して逝く勇気を少しずつもらえるんじゃないか、という気もして。