「病院は高齢者をもっと死なせるべき」と英国の医師

インフルエンザ予防接種など、
もう弱っている年金生活者への定期的な医療介入は
QOLを上げるわけでもなく、ただ延命効果のみ。

死につながるような要因をいくつも抱えて入院している高齢者が
心停止を起こした場合には、もう終わりに向かっているのだから
蘇生せずに死なせてやるべき。

高齢者、特に認知症患者の蘇生には検討が必要で、
なにしろ病院は高齢者を救命しすぎ。
もっと死なせるべき。

……などなどの発言の主は、James Beattie医師。
トップクラスの循環器専門医。

同医師によると、それが難しいのは
現代医療では死を目の当たりにすることが少なくなって、
多くの人が人の死を受け入れられなくなったから。

でも人はみな死ぬのだから、
死ぬ存在であることを受け入れないと、と。

Let the dying die!
SALON, August 1, 2014



「人はみな死ぬし、
死ぬ存在でしかないことを受け入れるべきだろーが」という批判は、

むしろ「人間は軽く150歳までは生きられる!」とか、
「いやいや、新興技術の躍進で人間は不死にすらなれるんだぞっ!」
「この病気もあの病気も、この薬やあの薬で予防してピンピンコロリっ」
「科学とテクノで、アンチエイジングっ」などなど
「科学とテクノで簡単解決文化バンザイ」でおめいている人たちのほうに向かって
飛ばしてほしい。

死を受け入れられないどころか、
病むことや障害のある状態で生きることまで否定する人たちが増えてきて、
それが「どうせ高齢者」「どうせ認知症」という、この医師のような感覚を生み、
「どうせ死ぬ人は金をかけずにさっさと死んでもらえばいい」ということに向かっている、

あるいは、そういう風潮に乗っかって
「どうせ死ぬ人なんだから」リスクに目をつぶって
保険で検査漬け、薬漬けにさせてもらって、
金ヅルにさせてもらおう、と一部の医師の間で
モラルハザードが起きている、

……というのが、むしろ正しい状況理解だと思うし。

でも、個々の高齢者は
べつに「何がなんでも死にたくない」と思っているわけでも、
まして、そう主張しているわけでもないと思う。

ただ、死ぬまでの過程を、どのような段階であっても
「どうせ」と突き放すのではなく、「せめて」という温かいまなざしで、
丁寧に過不足のないケアを受けたいのであり、

それは正当な主張だと思う。

もちろん、
ある段階に至ったときに、丁寧に判断した上での「過不足のないケア」が
延命の差し控えや中止、ということはあると思うし、

もちろん、その段階で闇雲に「死なせない」ことに執着することは
この医師がいうとおりにやめるべきだと思うけれど、

だからといって、

高齢者であっても、認知症患者であっても、障害者であっても、
「自分の症状に応じた適切で丁寧な医療を受けたい」という当たり前の願いを、
「死ぬ存在だということを認めず、生に固執する」ことと同一視して、
こんなふうに貶めるのは間違いだと思う。

なぜなら、それは、
どんな屁理屈を並べようと、
「どうせ高齢者、どうせ認知症患者なのだから
医療など無用にして、さっさと死んでもらえばよい」ということでしかないから。

それは、生きている間から、
高齢だというだけで、その人たちの命を軽視する医療につながりかねないから。

英国ではすでにLCPで起こってしまったように ↓

『どうせ高齢者』意識が終末期ケアにもたらすもの―英国のLCP報告書を読む』
http://synodos.jp/welfare/6606 

報告書の詳細については、以下から3つのエントリーにて ↓
リバプール・ケア・パスウェイに関する調査報告書(英)1(2013/12/3)