GLOBEの「生の終わりに」特集が障害者運動への取材なしに書かれたことについて


以下は、
この特集について今日spitzibaraが書いたメールの一部です。

もう一つ印象的だったのは
お二人とも障害者は取材されなかったんだな、ということです。

フィンレイ議員は以前からずっと私も注目してきた反対派ですが、
英国議会での議論では障害当事者のキャンベル議員がいるし、
彼女が取材から外れるのは私はまったく想定外でした。

米国でも、C&Cの対極としては
むしろNot Dead Yetなど障害者運動だろうと思っているので
その主張を盛り込んでもらえなかったのは、ちょっと残念です。

日本の報道でも、
尊厳死法制化に障害者運動が反対しているということは言われるわりに
実際に反対している障害当事者がメディアに取り上げられることは滅多にありませんが、
(なぜか障害者運動の主張を代弁する著名人や大学教授クラスの発言に置き換えられる?)
それは障害者やその立場で反対している人たちの多くが
議員でも医師でも大学教授でもなくて、つまり
取材対象になるだけの「資格」を欠いているからなんでしょうか。

そういえば、「生の終わり」特集のトップにある、
「回復の見込みがない病気だと分かった時、
あなたは何を大切にしたいですか」という問いは、
「回復の見込みがない病気になること」を
「生の終わり」と暗黙のうちに同一視していますが、

それでは難病患者や障害者は「終末期」にされてしまいます。

難病患者を含めた障害者に対する差別を織り込んだ社会、
少なくとも彼らの立場は想像の埒外においた集合的意識がまずあって、
その中にしかありえないジャーナリズムの「中立」ということを
これを見て考えてしまいました。

「意識がなくなったら」という表現も何度か使われていますが、
私たちが懸念しているのは、その「意識がなくなった」という判断を
「意識がある」段階から医療がしてきたという事実であり、
その事実を重大さを省みようとするよりもむしろ
「どうせ意識がないも同然じゃないか」と取り合わない
医療と社会のあり方です。

「自分がすでにその集合意識の上に立っていることに気づかないでいること」は
本当は「中立」ではないですよね。



自分たちのいのちが直接的に脅かされている、と恐怖を感じて
反対運動をしてきた人たちがいる。

その人たちが反対運動をしていることは認知されていて、
記事の中でも言及されているのに、

そして英米で「死ぬ権利」に反対してきた障害者運動については
具体的な人名を含めて情報提供もあったはずなのに、

その人たちには直接取材が試みられることもなく、
こうした特集が組まれ、記事が書かれる――。

障害者の声など聞かなくともよいのだと
社会に成り代わってジャーナリストがまず切り捨ててかかっている――。

障害者という存在が、いまなお、
どんなにこの国のメディアによって「特殊な人たち」視され
周縁化されているか、

世の中の障害者に対する差別構造の根深さに
自分がどれほど無知であり、甘かったかを痛感して、

打ちのめされました。