DCDドナーは「安楽死ドナー」ではない、ということをめぐって
【お詫び:8月25日夜追記】
このエントリーは
アカデミズムとジャーナリズムのあり方について書きたかったものであり、
どなたか個人を非難する意図のものではありませんでしたが、
アカデミズムとジャーナリズムのあり方について書きたかったものであり、
どなたか個人を非難する意図のものではありませんでしたが、
24日にアップしたエントリーは私の未熟から、
個人を批判するような書き方になってしまったので、
個人を批判するような書き方になってしまったので、
コメント欄で新書の内容について教えていただいたことを受けて
書き直しました。
書き直しました。
S先生とKさんに、心よりお詫びします。
申し訳ありませんでした。
申し訳ありませんでした。
---------
その中に、次の一節がある。
私には、これを「安楽死ドナー」と称することに疑問がある。
それが人為的に行われていることについては
例えば、2009年の段階で森岡正博氏が朝日新聞で
「ピッツバーグ方式」を紹介している ↓
森岡正博氏の「臓器移植法A案可決 先進国に見る荒廃(2009/6/27)
例えば、2009年の段階で森岡正博氏が朝日新聞で
「ピッツバーグ方式」を紹介している ↓
森岡正博氏の「臓器移植法A案可決 先進国に見る荒廃(2009/6/27)
DCD関連エントリーは、私のブログでは ↓
心臓を停止から75秒で摘出・移植しているDenver子ども病院(2008/10/14)
「脳死でなくても心停止から2分で摘出準備開始」のDCDを、ERで試験的に解禁(米)(2010/3/17)
臓器提供は安楽死の次には“無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
「1つの流れに繋がっていく移植医療、死の自己決定と“無益な治療”」を書きました(2011/5/14)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)
DCDで生命維持停止直後に脳波が変動するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”(2011/11/24)
「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?(2011/11/24)
「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilkinson 1(2012/2/22)
デンバー子ども病院「心停止から75秒で心臓摘出」プロトコル:関連資料(2013/4/15)
心臓を停止から75秒で摘出・移植しているDenver子ども病院(2008/10/14)
「脳死でなくても心停止から2分で摘出準備開始」のDCDを、ERで試験的に解禁(米)(2010/3/17)
臓器提供は安楽死の次には“無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
「1つの流れに繋がっていく移植医療、死の自己決定と“無益な治療”」を書きました(2011/5/14)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)
DCDで生命維持停止直後に脳波が変動するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”(2011/11/24)
「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?(2011/11/24)
「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilkinson 1(2012/2/22)
デンバー子ども病院「心停止から75秒で心臓摘出」プロトコル:関連資料(2013/4/15)
また、
重症障害児者の治療よりもドナーにすることを優先して呼吸器を取り外した可能性が
取りざたされて大きな論争を呼んだ、ナヴァロ事件については、
2007年にリアルタイムに報道を拾っているし、
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/20536764.html
重症障害児者の治療よりもドナーにすることを優先して呼吸器を取り外した可能性が
取りざたされて大きな論争を呼んだ、ナヴァロ事件については、
2007年にリアルタイムに報道を拾っているし、
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/20536764.html
上記の情報からわかるように、DCDドナーとは
むしろ「無益な治療」判断に基づいて(今のところは)同意を得た上での
生命維持の中止から心停止に至った「ドナー」であり、
「死の自己決定権」に基づいた「積極的安楽死」を経た「安楽死ドナー」ではない。
むしろ「無益な治療」判断に基づいて(今のところは)同意を得た上での
生命維持の中止から心停止に至った「ドナー」であり、
「死の自己決定権」に基づいた「積極的安楽死」を経た「安楽死ドナー」ではない。
(「無益な治療」論は本質的に医療サイドに一方的な決定権を認める議論だから、
DCDが「無益な治療」論と結びつくことには、「自己決定」に基づかない、
医療サイドの決定権に基づいた一方的な治療停止によるDCDに向かうリスクがある、
上記2つの事件からすると、そこに医療における障害者への偏見が作用する恐れもある、
ということを、私としてはずっと指摘し続けてきたんだけど、そして
これはこれで極めて重大なリスクだと私としては思うのだけれど、
これに対しては「拾ってもらった」感がこれまでほとんどない)
DCDが「無益な治療」論と結びつくことには、「自己決定」に基づかない、
医療サイドの決定権に基づいた一方的な治療停止によるDCDに向かうリスクがある、
上記2つの事件からすると、そこに医療における障害者への偏見が作用する恐れもある、
ということを、私としてはずっと指摘し続けてきたんだけど、そして
これはこれで極めて重大なリスクだと私としては思うのだけれど、
これに対しては「拾ってもらった」感がこれまでほとんどない)
ベルギーで2年前にロックトインの女性、「安楽死後臓器提供」(2010/5/9)
ベルギーの医師らが「安楽死後臓器提供」を学会発表、既にプロトコルまで(2011/1/26)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)
ベルギーの医師らが「安楽死後臓器提供」を学会発表、既にプロトコルまで(2011/1/26)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)
さらに2010年には、
サヴレスキュらがBioethics誌で「臓器提供安楽死」を提案してもいる ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
サヴレスキュらがBioethics誌で「臓器提供安楽死」を提案してもいる ↓
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
GA州のALS男性が「臓器提供安楽死」を希望(2010/7/25)
やっぱりCNNが飛びついたGA州ALS患者の「臓器提供安楽死」希望(2010/7/30)
GA州の「臓器提供安楽死」希望でキャスターがALSを「ターミナルな病気」(2010/8/10)
やっぱりCNNが飛びついたGA州ALS患者の「臓器提供安楽死」希望(2010/7/30)
GA州の「臓器提供安楽死」希望でキャスターがALSを「ターミナルな病気」(2010/8/10)
まあ確かに、私ごときが書いたものなど誰の目にも留まらないのだろうけれど、
これまでに、これらについてはブログのほかにも、『現代思想』でも、シノドスでも
それから拙著『アシュリー事件』でも『死の自己決定権のゆくえ』でも書いてきたし、
これまでに、これらについてはブログのほかにも、『現代思想』でも、シノドスでも
それから拙著『アシュリー事件』でも『死の自己決定権のゆくえ』でも書いてきたし、
ベルギーの「安楽死後臓器提供」については
Bioethics誌のサヴレスキュらの論文で言及されているし、
ベルギーの安楽死の実態についてはBioEdgeという有名なブログが
継続して追いかけている話題なのだから、
日本の生命倫理学界隈の方々がご存じないこともないはずだと
ずっと思っていた。
Bioethics誌のサヴレスキュらの論文で言及されているし、
ベルギーの安楽死の実態についてはBioEdgeという有名なブログが
継続して追いかけている話題なのだから、
日本の生命倫理学界隈の方々がご存じないこともないはずだと
ずっと思っていた。
でも日本では学者もメディアも触れない。
その中には本当に「知らない」人もいるだろうけど、
そういう問題について「専門家」の立場で発言するような人が
どうして「知らない」でいられるのかが、私にはわからないし、
そういう問題について「専門家」の立場で発言するような人が
どうして「知らない」でいられるのかが、私にはわからないし、
もちろん、それ以外に、
「知っているけど、何らかの理由で敢えて触れたくはない」人もいるのだろうと
想像してはいるけど、
「知っているけど、何らかの理由で敢えて触れたくはない」人もいるのだろうと
想像してはいるけど、
では、その「何らかの理由」というのって一体何なんだろう、となると、
私にはどうにも想像できなくて、ただただ不思議でならなかった。
私にはどうにも想像できなくて、ただただ不思議でならなかった。
つい、この前までは――。
でも、つい最近、
明らかに「知っている」人が
しかも「知らせる」ことを仕事にしているはずの人たちが、
どうも一定の事実については自分たちの判断で「知らないこと」にしてしまうらしい……と、
身をもって知った。
明らかに「知っている」人が
しかも「知らせる」ことを仕事にしているはずの人たちが、
どうも一定の事実については自分たちの判断で「知らないこと」にしてしまうらしい……と、
身をもって知った。
その人たちがそれらについて、ある段階では
「恐ろしいことが起こっている」という
認識をもっていたことも私は個人的に知っているだけに、
「恐ろしいことが起こっている」という
認識をもっていたことも私は個人的に知っているだけに、
その人たちが作り上げた物語が
高齢者や障害者に圧力がかかる「リスク」があると”反対派”は宣伝しているけど、
でも「恐ろしいこと」など実際は何も起こっていない世界の、
わかりやすく当たり障りのない「あなたはどういう死に方したい?」論争を描き出し、
しかも、そこでは社会保障費削減の必要には触れながら、
その一方で障害者の声を一切閉め出して、その論争が描かれたことに、
未だに大きな衝撃がおさまり切らない。
高齢者や障害者に圧力がかかる「リスク」があると”反対派”は宣伝しているけど、
でも「恐ろしいこと」など実際は何も起こっていない世界の、
わかりやすく当たり障りのない「あなたはどういう死に方したい?」論争を描き出し、
しかも、そこでは社会保障費削減の必要には触れながら、
その一方で障害者の声を一切閉め出して、その論争が描かれたことに、
未だに大きな衝撃がおさまり切らない。
でも、その「知らないこと」にし「ないこと」にする判断って、
社会の人々は一定の事実については「知らないでいい」と
本来なら「世の中で起こっていること」を知らせるべき立場にいる人たちが
勝手におもんぱかって判断してしまうことなんじゃないの?
社会の人々は一定の事実については「知らないでいい」と
本来なら「世の中で起こっていること」を知らせるべき立場にいる人たちが
勝手におもんぱかって判断してしまうことなんじゃないの?
「だいたい、こういう場合には
最重度の人たちが暮らしている部屋は視察コースから外すのが慣例なんですけどね、
今回はご案内しろって、言いました。もう何もかも見てもらいなさい、と指示したんです」
最重度の人たちが暮らしている部屋は視察コースから外すのが慣例なんですけどね、
今回はご案内しろって、言いました。もう何もかも見てもらいなさい、と指示したんです」
最重度の人たちが暮らしている部屋を見てもらうことは
知事さんに「失礼に当たる」のか?
知事さんに「失礼に当たる」のか?
なぜ「視察コースから外すのが慣例」なのか、
その理由を、その時の私は聞きそびれたのだけれど、
その理由を、その時の私は聞きそびれたのだけれど、
そんなことをしたら、なんのため、誰のための「視察」なのか、
そもそも「視察」の意味そのものがなくなってしまうじゃないか、と
ものすごく強く反発を感じた。
そもそも「視察」の意味そのものがなくなってしまうじゃないか、と
ものすごく強く反発を感じた。
でも、考えてみたら
この国ではアカデミズムもジャーナリズムも、
この「視察」対応と同じ「仕事」のやり方をしているんだなぁ、と思う。
この国ではアカデミズムもジャーナリズムも、
この「視察」対応と同じ「仕事」のやり方をしているんだなぁ、と思う。
つまり、簡単に言ってしまえば、
内向きの業界内でそれなりの業績を作って評価されるためなら
わざわざ「過激なこと」を持ち出して自分が何らかの矢面にさらされるようなリスクを負わなくても
「無難なこと」だけで、きれいに、それらしく、とりまとめて……ということ?
内向きの業界内でそれなりの業績を作って評価されるためなら
わざわざ「過激なこと」を持ち出して自分が何らかの矢面にさらされるようなリスクを負わなくても
「無難なこと」だけで、きれいに、それらしく、とりまとめて……ということ?
なるほど、だから
ビッグファーマの人命軽視のスキャンダルや
インドの代理母ツーリズムの実態だって
「死ぬ権利」の周辺で起こっているおぞましい事件の数々だって
ネットでいくらでも読めるところに情報はちゃんとあるというのに
日本ではまともに報道されることがないのか……と再認識した。
ビッグファーマの人命軽視のスキャンダルや
インドの代理母ツーリズムの実態だって
「死ぬ権利」の周辺で起こっているおぞましい事件の数々だって
ネットでいくらでも読めるところに情報はちゃんとあるというのに
日本ではまともに報道されることがないのか……と再認識した。
なるほど、だから、この社会は、
「直視したくないもの」「出来れば見えないままにしておきたいもの」は
政治もジャーナリストも学者もみんなで
「見えないままにしておく」ことに暗黙の合意が出来た、
現実否認社会なんだ、ということを。
「直視したくないもの」「出来れば見えないままにしておきたいもの」は
政治もジャーナリストも学者もみんなで
「見えないままにしておく」ことに暗黙の合意が出来た、
現実否認社会なんだ、ということを。
だから、そういう社会では、
目の前に歴然と提示された情報でも、
現実否認に都合が悪ければ、みんなで見て見ないフリをする。
目の前に歴然と提示された情報でも、
現実否認に都合が悪ければ、みんなで見て見ないフリをする。
敢えてその情報を流そうとする人がいると、
現実否認を脅かされないよう、バッシングして黙らせるか、
現実否認を脅かされないよう、バッシングして黙らせるか、
あるいは、
その人がたまたま社会的な地位や肩書きのない人間だったら……
その人がたまたま社会的な地位や肩書きのない人間だったら……
……そういえば、こんな歌があったっけな。
透明人間が絵を描いたんだけど、
透明人間のクレヨン、透明だから、
何を描いたのか、誰にもわからな~い~んだ。
透明人間が歌を歌ったんだけど、
透明人間の歌は透明だから、
何を歌ったのか、だ~れにも、わからな~い~んだ。
透明人間は本当にいたんだけど、
透明人間てやつは透明だから、
本当にいたのか、自分で~も、わからな~い~んだ。
透明人間のクレヨン、透明だから、
何を描いたのか、誰にもわからな~い~んだ。
透明人間が歌を歌ったんだけど、
透明人間の歌は透明だから、
何を歌ったのか、だ~れにも、わからな~い~んだ。
透明人間は本当にいたんだけど、
透明人間てやつは透明だから、
本当にいたのか、自分で~も、わからな~い~んだ。