DCDドナーは「安楽死ドナー」ではない、ということをめぐって

【お詫び:8月25日夜追記】

このエントリーは
アカデミズムとジャーナリズムのあり方について書きたかったものであり、
どなたか個人を非難する意図のものではありませんでしたが、

24日にアップしたエントリーは私の未熟から、
個人を批判するような書き方になってしまったので、

コメント欄で新書の内容について教えていただいたことを受けて
書き直しました。

S先生とKさんに、心よりお詫びします。
申し訳ありませんでした。


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岩波新書ぬで島次郎・出河雅彦著『移植医療』
向井承子さんによる書評が東京新聞に掲載されていて、



その中に、次の一節がある。

深刻なのは、脳死になる以前に臓器提供の目的で意図的に心臓を止めるいわば「安楽死ドナー」の登場だ。米国や英国で急増というが、倫理の視点を失った医療はどこまで暴走するのだろう。


私には、これを「安楽死ドナー」と称することに疑問がある。

なんとなれば、
脳死になる以前に臓器提供の目的で意図的に心臓を止める」ことを経ての臓器提供は
「心臓死後臓器提供(DCD:Donation after Cardiac Death)の1形態であり、

それが人為的に行われていることについては
例えば、2009年の段階で森岡正博氏が朝日新聞
ピッツバーグ方式」を紹介している ↓
森岡正博氏の「臓器移植法A案可決 先進国に見る荒廃(2009/6/27)

もっとも「ピッツバーグ方式」はDCDのプロトコルの1つであって、
DCD=「ピッツバーグ方式」というわけではない。



また、
重症障害児者の治療よりもドナーにすることを優先して呼吸器を取り外した可能性が
取りざたされて大きな論争を呼んだ、ナヴァロ事件については、
2007年にリアルタイムに報道を拾っているし、
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/20536764.html

2009年には同様の疑いがもたれたケイリー事件についても拾っている。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/51309695.html


上記の情報からわかるように、DCDドナーとは
むしろ「無益な治療」判断に基づいて(今のところは)同意を得た上での
生命維持の中止から心停止に至った「ドナー」であり、
「死の自己決定権」に基づいた「積極的安楽死」を経た「安楽死ドナー」ではない。

(「無益な治療」論は本質的に医療サイドに一方的な決定権を認める議論だから、
DCDが「無益な治療」論と結びつくことには、「自己決定」に基づかない、
医療サイドの決定権に基づいた一方的な治療停止によるDCDに向かうリスクがある、
上記2つの事件からすると、そこに医療における障害者への偏見が作用する恐れもある、
ということを、私としてはずっと指摘し続けてきたんだけど、そして
これはこれで極めて重大なリスクだと私としては思うのだけれど、
これに対しては「拾ってもらった」感がこれまでほとんどない)


さらに、
DCDドナーを「安楽死ドナー」と呼ぶのは誤りだと私が考えるのには、
もう一つの理由がある。

「死の自己決定権」「死ぬ権利」に基づいた「積極的安楽死」を経てドナーとする
安楽死後臓器提供」は、すでに2005年からベルギーで行われている ↓







その他の移植関連エントリーのリンク一覧はこちらに ↓
これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)


つまり、私が言いたいのは、
既に「積極的安楽死ドナー」が存在しているという事実があるのだから
「消極的安楽死ドナー」を「安楽死ドナー」と呼ぶのはおかしいということです。

まあ確かに、私ごときが書いたものなど誰の目にも留まらないのだろうけれど、
これまでに、これらについてはブログのほかにも、『現代思想』でも、シノドスでも
それから拙著『アシュリー事件』でも『死の自己決定権のゆくえ』でも書いてきたし、

ベルギーの「安楽死後臓器提供」については
Bioethics誌のサヴレスキュらの論文で言及されているし、
ベルギーの安楽死の実態についてはBioEdgeという有名なブログが
継続して追いかけている話題なのだから、
日本の生命倫理学界隈の方々がご存じないこともないはずだと
ずっと思っていた。

でも日本では学者もメディアも触れない。

その中には本当に「知らない」人もいるだろうけど、
そういう問題について「専門家」の立場で発言するような人が
どうして「知らない」でいられるのかが、私にはわからないし、

もちろん、それ以外に、
「知っているけど、何らかの理由で敢えて触れたくはない」人もいるのだろうと
想像してはいるけど、

では、その「何らかの理由」というのって一体何なんだろう、となると、
私にはどうにも想像できなくて、ただただ不思議でならなかった。

つい、この前までは――。

でも、つい最近、
明らかに「知っている」人が
しかも「知らせる」ことを仕事にしているはずの人たちが、
どうも一定の事実については自分たちの判断で「知らないこと」にしてしまうらしい……と、
身をもって知った。

そこで「知らないこと」にされた中に
たまたまベルギーの「安楽死後臓器提供」や
集中治療医学会による同意なき安楽死容認声明などの事実が含まれていたことも、

その人たちがそれらについて、ある段階では
「恐ろしいことが起こっている」という
認識をもっていたことも私は個人的に知っているだけに、

その人たちが作り上げた物語が
高齢者や障害者に圧力がかかる「リスク」があると”反対派”は宣伝しているけど、
でも「恐ろしいこと」など実際は何も起こっていない世界の、
わかりやすく当たり障りのない「あなたはどういう死に方したい?」論争を描き出し、
しかも、そこでは社会保障費削減の必要には触れながら、
その一方で障害者の声を一切閉め出して、その論争が描かれたことに、
未だに大きな衝撃がおさまり切らない。

でも、その「知らないこと」にし「ないこと」にする判断って、
社会の人々は一定の事実については「知らないでいい」と
本来なら「世の中で起こっていること」を知らせるべき立場にいる人たちが
勝手におもんぱかって判断してしまうことなんじゃないの?

そこで私が思い出したのは、
社会福祉施設への指定管理者制度導入が問題となっていた時期に、
娘の暮らす施設に県知事が視察に来ることになった時に
施設の幹部から聞いた次の一言。

「だいたい、こういう場合には
最重度の人たちが暮らしている部屋は視察コースから外すのが慣例なんですけどね、
今回はご案内しろって、言いました。もう何もかも見てもらいなさい、と指示したんです」

最重度の人たちが暮らしている部屋を見てもらうことは
知事さんに「失礼に当たる」のか?

それとも最重度の人たちの現実を受け止めるだけの心や知識の準備が
知事さんにはまだ出来ていないだろうから変に誤解されては困る、といった
妙ちきりんなパターナリズムだとでもいうのか?

なぜ「視察コースから外すのが慣例」なのか、
その理由を、その時の私は聞きそびれたのだけれど、

そんなことをしたら、なんのため、誰のための「視察」なのか、
そもそも「視察」の意味そのものがなくなってしまうじゃないか、と
ものすごく強く反発を感じた。

でも、考えてみたら
この国ではアカデミズムもジャーナリズムも、
この「視察」対応と同じ「仕事」のやり方をしているんだなぁ、と思う。

つまり、簡単に言ってしまえば、
内向きの業界内でそれなりの業績を作って評価されるためなら
わざわざ「過激なこと」を持ち出して自分が何らかの矢面にさらされるようなリスクを負わなくても
「無難なこと」だけで、きれいに、それらしく、とりまとめて……ということ?

なるほど、だから
ビッグファーマの人命軽視のスキャンダルや
インドの代理母ツーリズムの実態だって
「死ぬ権利」の周辺で起こっているおぞましい事件の数々だって
ネットでいくらでも読めるところに情報はちゃんとあるというのに
日本ではまともに報道されることがないのか……と再認識した。

なるほど、だから、この社会は、
「直視したくないもの」「出来れば見えないままにしておきたいもの」は
政治もジャーナリストも学者もみんなで
「見えないままにしておく」ことに暗黙の合意が出来た、
現実否認社会なんだ、ということを。

だから、そういう社会では、
目の前に歴然と提示された情報でも、
現実否認に都合が悪ければ、みんなで見て見ないフリをする。

敢えてその情報を流そうとする人がいると、
現実否認を脅かされないよう、バッシングして黙らせるか、

あるいは、
その人がたまたま社会的な地位や肩書きのない人間だったら……

……そういえば、こんな歌があったっけな。

透明人間が絵を描いたんだけど、
透明人間のクレヨン、透明だから、
何を描いたのか、誰にもわからな~い~んだ。

透明人間が歌を歌ったんだけど、
透明人間の歌は透明だから、
何を歌ったのか、だ~れにも、わからな~い~んだ。

透明人間は本当にいたんだけど、
透明人間てやつは透明だから、
本当にいたのか、自分で~も、わからな~い~んだ。