医師の自殺幇助は「社会的行為」・・・Brittany Maynard事件

Brittany Maynardさんは
癌だと分かって自殺幇助が合法化されたオレゴン州に引っ越し、
すでに致死薬を手に入れて、11月1日に幇助自殺を決行すると、
C&Cのビデオで公表している29歳の女性。

関連情報は10月14日のメモに。

そこで書いたように、
私もこの件については同じことを思っていたのだけれど、

MaynardさんはC&Cに利用されていて、
こういう形で意思を表明してしまった彼女は
世間の期待通りに死ななければならないと感じざるを得ない立場に置かれてしまった、と
緩和ケア専門医のIra Byock医師がラジオのトーク番組でコメントし、

それに対して、
Maynardさんがその番組のHPへのコメントで反論。

I DO NOT, this is MY choice, I am not that weak. The day is my choice, I have the right to change my mind at any time, it is my right. I am very confident about this. This is a patient right that is critical to understanding Death with Dignity.

(世間の期待通りに死ななければと感じているようなことは)断じてありません。これは私自身の選択です。私はそんなに弱くはありません。その日を決めるのも私の選択ですし、私にはいつでも気持ちを翻す権利があります。それは私の権利なのです。この点については疑問も疑いも一切ありません。これは患者の権利であり、それは「尊厳ある死」(という概念?)を理解するために不可欠な権利なのです。


後日、これに番組ホストからレスポンスを求められて、
Byock医師が答えたのは、

It’s personally hard for me to hear that I’ve caused this young woman more distress … One of the things I disagree with is that Brittany Maynard has just said again that she thinks it’s her personal choice. But you know, physician-assisted suicide is not a personal act, it’s a social act. Physicians aren’t personal. We are trained by society … So when a physician writes a lethal prescription, it’s a social act.

個人的には、私がこの若い女性を余計に苦しめることになったと聞くのは辛いですが…… 同意できない点の一つは、Brittany Manardさんがまたしてもこれは自分の個人的な権利だと思うと言ったことです。しかし、医師による自殺幇助は個人的な行為ではなく社会的な行為ですよね。医師は個人的な立場ではない。医師は社会によって訓練されるのです…… つまり、医師が致死薬の処方箋を書くとき、それは社会的な行為なのです。
(ゴチックはspitzibara)


これ、とても大事なポイントだと思う。

『生命倫理学と障害学の対話』の共訳者の安藤泰至先生が
いつもおっしゃっているように、

physician assisted suicideとは字義的には「医師に幇助された自殺」であり、
PASは「医師による自殺幇助」ではなく「医師幇助自殺」と訳すべきだ、
ということの意味が非常によく分かる。

私自身はそれまで深く考えないまま、
広く使われていた「医師による自殺幇助」に疑問を持たずに使ってきて、
安藤先生のおっしゃることに触れて、初めて訳語の問題に気づきました。

それからグルグル考えてきて、
安藤先生のご指摘を十分に了解した上で、
私自身は文脈によって使い分けつつも
今なお「医師による自殺幇助」と訳すことが多いです。

一番大きな理由は、
英国のガイドラインなど「近親者による自殺幇助」の議論が平行していること。

英国のガイドラインでは
近親者による自殺幇助が諸々の条件を特定しないまま
事実上合法化されたようなことになり、
医療従事者のガイドラインでの位置づけが曖昧なまま、
その境目がなし崩しにされていきそうな気配があったり、
(案の定、つい最近、実際の文言の修正となりました)

他の英語圏でもPASの議論が進むにつれて
主として近親の介護者による自殺幇助が法的社会的に免罪されていく傾向が
気になっているので

今の「自殺幇助」合法化の議論の流れには
「医師によるもの」だけでなく「近親者によるもの」も含まれていて
前者の合法化議論によって後者への容認が先行してすらいるようだけれど、
実際は別の問題であり別の議論のはずだというのを明確にしておきたい。

もう一つは、
議論そのものが、そんなふうに別の問題へも広がり、様々な捩れを内包して、
はるかに複雑な様相を呈していくにもかかわらず、
それらがきっちりと区別されて詳細に議論されるのではなく、むしろ
the right to die, AID(aid in dying), death with dignityなどの包括的な文言で、
それらの区別をなしくずしにして「緩和ケア」に含めていこうとする動きが
加速しているのではないか、とも感じているので、
(例えば ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66471789.html)

そうした「(医療的)臨死介助」など文言の曖昧さに対して、
「自殺幇助目的での致死薬の処方」と「積極的安楽死」の区別、
「積極的安楽死」と「消極的安楽死」の区別、
さらに、それらと「緩和ケア」の区別を
きちんとつける必要を日に日に強く感じている、ということも。

そういうことを含めて、PAS合法化で容認されるのは
「自殺を幇助する目的で致死薬を処方するという、医師の具体的な行為」だということに、
やっぱり、もうちょっとこだわってみたいという感じを引きずっています。

実際、physician assisted suicideという文言をどう訳すかというのは
「アシュリー療法」や「成長抑制」と同じく、とても複雑な問題をはらんでいて、

どちらにおいても、
その問題について十分に理解し、訳語を詳細に検討した上で、
「だからこそ、意図や作為されていることを見失わぬように訳す」か
「だからこそ、現に行われていることを見失わぬように訳す」か
というジレンマであり、選択なのだろうと思います。

そこのところは
生命倫理学と障害学の対話』では
「訳者あとがき」で安藤先生がちょっと書いてくださっているように、
訳者の間で議論があり、いずれも前者に統一されています。

ともあれ、PASについて
実際に合法化されるのは「医師が自殺を幇助するという社会的な行為」でありながら、
それを「医師の幇助を受けて自殺する個人的な権利」としてのみ位置づけて論じることの
危うさというのか、あざとさというのかが、

MaynardさんとByock医師とのやりとりから
くっきりと浮き彫りになる感じがします。

安藤先生が指摘されているのが
まさにこの点。



それにしても
I am not that weak ……。

なんか、もう、痛々しくてならない。