『定年後のリアル』勢古浩爾



アマゾンの「内容」は

やがて来る「定年後」。誰もが抱く不安は「お金は、生きがいは、健康は」の三大テーマ。メディアは経済や健康の不安を煽るばかりだが、焦ったところでどうする術もない。誰だって「老人」になるのは初体験。終わりゆく人生、老いゆく体とどう向き合い、一日一日の喜びを感じながら軽やかに生きられるか。その答えはたぶん自分の中にある。もう人生のレールは敷かれていない。人生のレールが消えることで、義務や目標から解放されるときでもある。等身大の自分のリアルを受け入れて、のほほんと生きていくための一冊。


ずいぶん前に暇つぶしに買ってみたら、
中の一節がたいそう興味深かったものだから、
エントリーにしたいなと思って机の周辺で転々とさせているうちに
久しく姿を見失っていたのだけど、

今日、久しぶりに机周辺のわちゃわちゃを片付けているうちに、
埃まみれで発掘されたものだから、

おー、そーだったわい……と書いてみる。

その一節とは、

 わたしはときどきヘンなことを考える。一錠を飲むだけでなんの苦もなく、眠るように楽に死ねる錠剤があるなら、老後の不安のほとんどは消失するのではないか、と。だったら金がなくても平気である。孤独もへっちゃら。寝たきりになっても平気。あてのない放浪の旅にでても大丈夫だ。もう鬼に金棒、勇気リンリンで怖いものなどなにもない。ただし、あくまでも楽に眠るように、が条件である。自決用の手榴弾は嫌である。

 むろん、こんなことは非現実的な妄想である。自決用ではなく、他殺用にも使用される恐れがあるから、こんなものが開発され、発売されることは絶対にありえない。老後のほんとうの不安というのは、最終的には、どんなに絶望的な病気になっても、生活をする金が底をついても、生きる意欲がまったくなくなっても、もう死んでもいいと思っても、それでも生きなければならないし、生かされてしまうという不安があるからだ、と思われる。

 ……(中略)……にっちもさっちもいかなくて、生きていることじたいにも意味がまったくなくなって、もう死んでもいいな、と思うときに、そんな錠剤があれば、助かるではないか、と思うのである。なんとか、ならないかなぁ、老人のこの最強最終兵器。

 これだけ「権利」がなんいでも貼り付けられる時代なのに、「死ぬ権利」だけは決して公認されることはない。たしかにいかにも危険思想(?)ではあろう。キリスト教国は猛反対であろう。ただ、私ひとりだけのためにそんなものがあったらなあ、と夢想するだけなのだが、まあこんなことをいうと、おまえは勝手に死ねばいいだろ、身投げでもすればいいじゃないか、といわれて一巻の終わりであろう。うーむ。水死は苦しい。どうするかね。やはり招命を待って、おまかせしかないか。
(p.182-3)


ここ、読んだ時に
思わず口に出してつぶやいた。

その錠剤、もうありますよ……。

「こんなことを」言ったって、
みんながそれを言い始めた時代ともなれば、
「おまえは勝手に死ねばいいだろ」なんて言われないし、

「一巻の終わり」じゃなくて、
「そーだ、そーだ、だって
自分が死にたい時に死にたいような死に方をするのは権利だろ」と
ちゃんと共感してもらえる時代になっていますよ……って。

「一錠を飲むだけでなんの苦もなく」というほど簡単かどうかは別として、
この人がここで「非現実的な妄想」と言っている「老人のこの最強最終兵器」は、
「絶対にありえない」どころか、世界中のいくつかの場所で
すでに現実に手に入るものとなっている。

キリスト教国は猛反対」どころか、
「死ぬ権利」が盛んに説かれて現実となっている国は
聞くところによるとプロテスタントキリスト教国だそうな。

初めて読んだ時、ここの下りで立ち止まってしまい、
なんども繰り返し読みながら、
著者に拙著『死の自己決定権のゆくえ』を送ってみようかと、
私は半ば本気でぐるぐると考えた。

「非現実的な妄想」でも「絶対にありえない」ことでもなく、
「死ぬ権利」は「公認」されて、すでに現実だと知ったら、
この人はそれをどう捉え、何と言うのだろう、と。

同時に、
「死ぬ権利」を求める人たちの思いを素朴なまま言葉にすれば、
ここに書かれている言葉になるのだろうな、と得心もした。

この本を読んだ半年近く前には、現実世界からはまだ
ここまでの声はまだ出てきていなかったと思う(少なくとも私は知らなかった)けれど、
つい最近、ベルギーで来年2月に揃って安楽死すると公表した老夫婦の言葉は、
まさに「老後の不安を解消」するために
著者の言うように「自決用の手榴弾は嫌」だし「水死は苦しい」から
「あくまでも楽に眠るように」という願望そのものだ。

数ヵ月後に死ぬ日を設定すれば、
それまでの間に諸々の準備を整えることも出来る。
周到に準備して「理性的な自殺」を遂げたカナダの John Alan Leeさんのように。

でも、何度かこの下りを読み返しているうちに、
著者はこの素朴な思いのところで留まっているわけでもないようだ、
ということも感じられてきた。

たとえば、
「自決用ではなく、他殺用にも使用される恐れがある」とか
「わたしひとりだけのためにそんなものがあったらなぁ」とか、
「どうするかね。やはり招命を待って、おまかせしかないか」とか。

それで思い出した。
数ページ前に、この人はこんなことを書いていたんだった。

 わたしは「死ぬの大好き」ではない。どちらかといえば、嫌いである。が、なにがなんでも長生きしたい、絶対に死にたくはないとは思わない。死ほど、これだけ嫌がられながら、これだけあっけないものもまたとない。べつに死にたいと思っているわけではない。しかし、これもまた思い煩うことはやめにしよう。一応の心構えだけはしておいて、考えることはやめよう。

 こんな心構えなど大して役に立たないだろうが、いきなり不意をつかれるよりは幾分ましかもしれない。あとはもう出たとこ勝負である。大丈夫。こっちがどんなに嫌でも、死が間違いなくあっち側につれていってくれるはずである。いや、大丈夫じゃないかもしれないが、もうどうでもいい。いままで死ぬことに失敗した人は全人類史でただのひとりもいないのだから。おまかせしよう。
(p.172)


そして、さらに読み進んでいくと、最後のあたりでは

 昨今の少子高齢化や若年層の生き難さの問題などを見ていると、人間はいきづまっているように見えてしかたがない。政治は民主主義、経済は資本主義と市場主義、社会は自由主義と権利主義(こんな言葉はないが)。いずれも現時点において人類の叡智が到達した理想的な地点といっていい。これらを越える思想はまだ現れていない。が、そこでどんづまっているのもたしかである。山積する「問題」でどんづまり、予算でどんづまり、なによりも頭でっかちになった人間がどんづまっている。

 もっと幸福な顔をした人間がこの社会(世界)に溢れていてもよさそうなものなのに、ちっともそうは見えないのである。人間の力量を超えて、それらの主義や思想が風船みたいに極限まで息を吹き込まれてパンパンに膨れ上がり、ついには政治と経済と社会と人間のあちこちが破れ、そこから醜悪なものが外に噴きこぼれているような状態である。
(p.218)


なによりも頭でっかちになった人間がどんづまっている……。

オレゴンで「尊厳死法」を利用して自殺する人の平均的な人物像とは、
比較的裕福な地域に住み高学歴の白人男性――。