高齢者に「予防的自殺」の提言(米)

ブリタニー・メイナード事件をめぐる
メディアの「死ぬ権利」騒ぎからいろんなものが出てきていて、

11月10日のメモでも拾ったように、
今度はCA州で肺がんの50代の女性がPASを求めていたりもするのだけれど、

NYTのご意見欄に、
高齢者には「予防的自殺」を合法化してはどうか、という
カリフォルニア大学の歴史学の名誉教授からの提言が寄せられている。
(これまたCA州だというのが非常に興味深い)

With nearly half of people 85 or older suffering from Alzheimer’s disease, concerns about quality of life in old age are reasonable, even if opinions about what to do about the situation vary widely. However sane prophylactic suicide might be, getting assistance is illegal.

85歳以上の高齢者の約半数がアルツハイマー病にかかっていたり、高齢期のQOLの心配をしている。もちろん、だからその状況に対してどうすべきかという意見は大きく異なっているだろうけれど。しかし、予防的な自殺がいかに正気のものであったとしても、援助を受けることは違法行為である。

Yet a recognized right to assisted suicide for those over 80 would ensure a painless death and allow an elderly person’s loved ones to be there at the end. As someone who is 85, I know I would appreciate having that choice.

一方、80歳以上の高齢者に幇助自殺の権利を認めれば、苦しみのない死が保障され、高齢者の愛する人々も最期の時にそばにいることが出来るのだ。85歳という年齢の者として、私はそういう選択肢があれば助かるのに、と思う。

Probably not many people would use such an option, but making it legal would certainly prompt a much-needed discussion about what it means to prolong life without prolonging the capacity to enjoy it.

おそらく、このような選択肢を利用する人は多くはないだろう。しかし、合法化すれば生命を楽しむ能力を引き伸ばすことは出来ないまま、生命を引き伸ばすことにどのような意味があるのかをめぐって、ぜひとも必要な議論を促進することは間違いないだろう。


これまでにも、こうした提言や動きは各国から出てきていて、

今までに拾ってきたエントリーをざっと検索してみただけでも、
こんなにあることに、改めて息を呑んだ ↓






「死ぬ権利」議論で、
「終末期で耐えがたい苦痛がある」という指標から
QOL指標へとスタンダードを広げていく「すべり坂」が起こる、
ということの例証の一つのような提言。

議会でPAS合法化法案の審議が続く英国では、
障害当事者のキャンベル上院議員がこう言っている ↓
ジェーン・キャンベルさん「不況で高齢者や障害者に圧力かかっている時にPAS合法化は危険」(2014/3/17)

Invitation to a Dialogue: Choosing When to Die
NYT, The Opinion Page, November 11, 2014


実際、「無益な治療」論では、
「ポイント・オブ・ノーリターン」を超えた患者に
心肺蘇生など無益な治療をして無駄に苦しめるのはやめよう、という
当初の理念がすでに変質し、QOL指標による一方的な医療の切捨てが起こっている。

そして、対象者像はさらに拡大を続けている。

一番恐ろしい「すべり坂」は
こうした医療現場の「無益な治療」論の変質変容と
各国のロビー団体が戦略的に推し進めている「死ぬ権利」議論とが
相互作用を起こして、社会の人々の価値観そのものを変質変容させて、
人間社会のあり方そのものが変質していくこと。



ちなみに、私が個人的にすごく象徴的だと感じるのは、
prophylactic(予防的)という単語が使われていること。

この単語、
2006年にアシュリーの担当医2人が論文を発表した際に、
子宮摘出の本来の目的(生理痛を回避しQOLを向上させる)を隠蔽し、
単にホルモン療法の副作用を予防するための処置と位置づけて
prophylactic hysterectomy(予防的子宮摘出)と形容し、
子宮摘出を不当に正当化するために使っていたもの。

2006年段階で主治医らの論文は
その問題をそれとして堂々と定義・提起することをためらったわけだけれど、
(そして、その事実こそ、主治医らが倫理問題を自覚していた暴露でもあるのだけれど)

その後、父親のブログで勃発した倫理論争によって、
アシュリー事件は明らかに、
QOL目的での重症障害児の身体への侵襲の倫理性をめぐる論争となった。

2007年のアシュリー事件は
高齢者がQOL低下を防ぐための「予防的自殺」の提言が出てくる
こうした今の時代を予言するかのように起こった象徴的な事件だったのだと
もう何度もあちこちで書き、かつしゃべってきたことだけれど、
改めて、そのことを再認識させられる。

その時代には、
社会的な問題の解決のために医療技術が用いられる「医療化」が推奨されていく。

まるで、それを象徴するかのように
prophylacticのような医学専門用語が
こんな文脈で「自殺」を形容するために持ち出されてきたりする。