中絶をめぐる「女性の決定権」論議から「母に殺させるな」の先へ

約一ヶ月前に某所で出生前遺伝子診断についての議論に加わり、
その際にも、中絶が「女性の決定権」なのだとすると、
じゃぁ「胎児の生存権」は否定されるじゃないか、という話が出て、

利光恵子さんの『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』(生活書院)を引き合いに出して
日本のフェミニズムはそこのところで非常に真摯に葛藤したのだということを言おうとしたのだけれど、
私の知識や理解の不足と、たぶん私自身がすっきり納得し切れていないためもあって、

「女性の中絶決定権は胎児の生存権を否定している」という批判は、
問題を単純な構図で捉えすぎていると思う、という以上に
突っ込んで議論することが出来なかった。

帰って来てから、ずっとモヤモヤしながら
ブログ内検索でこのエントリーを振り返ってみたけど、
「障害者の権利とリプロダクティブ・ライツは相互に否定しない」と優生思想に抗議するステートメント(2010/10/30)

やっぱり、モヤモヤは晴れなかった。

それからしばらくして、松永正訓医師のブログで
この問題が取り上げられているのを読み ↓
障害胎児の生命倫理をめぐる4つの視点(2014年10月28日)

日本の女性運動と障害者運動が苦しみながらも合意点を見出したところを
とても簡潔にまとめてくださっていることに感激したのだけれど、

でも日本のフェミニズム
今でも「産む産まないは女(わたし)が決める」という立場なのだということを思うと、
依然モヤモヤは残ったものだから、

上記10年10月30日のエントリーの中にリンクしてあったこちらを読んでみた ↓
山本有三の堕胎罪批判から考えたこと(2010/8/13)

それで、2010年に自分が以下のようなことを考えていたのだと再確認して、
ほんのちょっとだけ、すっきりした。

山本有三の言葉と、検事の言葉を何度か読み返していると、
この前、2人の幼児を1カ月以上も放置して死なせた若いお母さんのことが頭に浮かんだ。

そして、いかに離婚したにせよ、
あの子どもたちには父親だっていたのだ……ということを考えた。

……中略……

「女性の選択権」 vs 「子どもの命」という対立の構図が、そもそも違うんだ――。
……と、ふいに目の前を拭われたように、明瞭に了解した。

そういう構図で考えるところに頭を持って行かれてしまうことに、まず警戒し、
もうはまっていたら、それに気付き、そこから抜け出さないといけないんだ――。

その対立の構図は、やっぱり、Ashley事件でDiekemaらが仕組んだ
「本人のQOLを守ろうとする親の愛」vs 「政治イデオロギーで邪魔立てする障害者」の
対立の構図とそっくり同じなのではないか、と思う。

そこでは、どちらも同じ問題のすり替えが行われていて、
そのすり替えで覆い隠されようとしているのは同じものなのではないか、

そこで覆い隠されているものとは、つまり、
変えるべきものが社会の中にある、ということ――。

(ゴチックは、今回、特に強調したい部分につけました)


これこそが松永先生のまとめにある
「女性が産みたい社会、産める社会を国家は作れ」にも通じていくわけで。


……というあたりのことを、
ぼや~っとながら、ここしばらく考えていた。


第1章「生まれることの倫理」で
中絶をめぐって「女性の決定権」を認めると
「胎児の生存権」はどうなるのか、という問題が取り上げられていて、
以下のように書かれていた。

 倫理学として考えても、「胎児の生存権」を論の軸に置くのは得策ではない。それをやり始めると、「女性の決定権」対「胎児の生存権」という争いに見えてきて、「胎児を闇に葬る女性がけしからん」という論調になってしまう。今日の女性権理論は「対胎児」ではなく「対男性社会」で組み立てられてきた。ここに胎児をもちだすことで女性権理論の問題点をあげつらうことは、論点のすり替えになって不公正である。
 避妊の文脈で述べたように、妊娠・出産がもっぱら女性の側の問題とされることが、すでに不公平なのだ。おなかにいる赤ちゃんを「殺さ」なければならないかもしれないという葛藤に、そしてその葛藤が起こるのを未然に防げるかどうかに、男性がどういう意識をもって関われるかが課題であり、「いのちを育む両方の性」としての倫理の共有が求められるのである。
(p.19-20)


そういえば、つい先日、
ウーレットの共訳者の安藤先生がどこかでしゃべられた際に
この問題をめぐって「父親はどこにいる?」と問題提起されていたことを思い出し、

そうすると、この問題から引きずられるように、
「母よ殺すな」をかつてツイッターで「「母に殺させるな」と転じてみたことが思い出されてきた ↓
母に殺させるな……「介護者支援」への思い(2012/1/12)

そして、
そうか、「母に殺させるな」では不十分だったのだ……と、目からウロコが落ちた。

そこは、まず「母が殺す時、父はどこにいるのか?」と問うべきだったのだ。

「殺すな」と母に呼びかけている
成人した男性であり、夫であり父親でもあるあなたは
この問題の一体どこに立っているのか? と。

そして、
「母に殺させるな」とは同時に、
「母に殺させる社会の中に、父を逃げ込ませるな」という
メッセージでもあるべきだった。


ちなみに、この葛藤をめぐって
これまで考えてきたエントリーたちはこちら ↓