『神も仏もありませぬ』佐野洋子

「神も仏もありませぬ」佐野洋子 筑摩書房
(ただし私が読んだのは2003年の初版単行本)


著者63歳から65歳、
北軽井沢に住み始めた頃のエッセイ。

この中の、
「フツーに死ぬ」という章が
むちゃくちゃ良かった。

がんになった愛猫のフネの看取り体験を書いてある。

全部書き写したいくらい良かったんだけれど、
まさかそういうわけにもいかないので、何箇所か、
どうしても、というところのみ。

 えーッ、ガン! 猫なのに。「どれ位、もちますか」「うーん、何とも云えませんねェ、一週間かもう少しもつか」。えっ、一週間? えっ。「体重三キロへってますねェ、脱水状態ですねェ、水飲んでなかったと思いますよ。点滴して抗ガン剤入れてみますか。何にもしないで、安楽死という選択もありますが」。安楽死という言葉を医者は云いにくそうに小さな声で、私の目を見ないで云った。……
(p. 49)


著者はものを食べられなくなったフネのために
「一番高いかんづめ」をいろんな味のものをとりそろえて10個買ってくる。


……白身の魚のあまりのうまさに、パクパク食べてガンがだまされるかも知れん。レバーなんぞペロペロ食べたら、もしかしたら肝臓のガンも負けるかも知れん。高いったって安いものだ。しかし奇跡は起こらないだろうとも思う。
 小さな皿にスプーン一さじをとり分けてフネの鼻先に持って行った。
 匂いをかいでフネは一さじ分を食べた。私は勇んでもう一さじを入れた。フネは口を閉じたまま私の目を見た。「ねぇ、食べな」と私は云った。私は自分の声に気がついた。全然猫なで声になっていない。私は一生猫なで声というものを出したことがなかったらしい。……
「ねぇ、もう一口食べてみな」フツーの声で私はまた云っているのだ。フネは私の目を見ながら舌を出して白身を一回だけなめた。私の声に一生懸命こたえようとしている。お前こんないい子だったのか、知らんかった。
 気がつくとフネは部屋の隅に行っていた。

 本当にあと一週間なのか。もしかしたら、今そのまま死んでしまっても不思議はないのか。苦しいのか。痛いのか。ガンだガンだと大騒ぎしないで、ただじっと静かにしている。
 畜生とは何と偉いものだろう。
 時々そっと目を開くと、遠く孤独な目をして、またそっと目を閉じる。
 静かな諦念がその目にあった。
 人間は何とみっともないものなのだろう。
(p. 51-52)

 一週間たった。猫の医者が「どうです」と電話をかけて来てくれた。猫の医者の半分か十分の一でも、人間の医者が患者の事を心配してくれるだろうか。退院していった患者に電話してくれる事なんかないなあ。
(p.54)


それから、フネがだんだんと衰弱していく様子が書かれて、
一ヵ月後にフネは部屋の隅でクエッと変な声を2回出して、死ぬ。

ここの3行はすごい。すごいんだけど、すごいだけに、
なんか、ここに書き写してはいけないような気がするのでパス。

その場面に続いて、

 私は毎日フネを見て、見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。ほとんど一日中見ているから、一日中人間の死に方を考えた。考えるたびに粛然とした。私はこの小さな畜生に劣る。この小さな生き物の、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるんだ。その静寂さの前に恥じた。私がフネだったら、わめいてうめいて、その苦痛をのろうに違いなかった。
 私はフネの様に死にたいと思った。人間は月まで出かける事が出来ても、フネの様には死ねない。月まで出かけるからフネの様には死ねない。フネはフツーに死んだ。
 太古の昔、人はもしかしたらフネの様に、フネの様な目をして、フツーに死んだのかも知れない。「うちの猫死んだ」とアライさんに報告したら、「そうかね」とアライさんはフツーの声で云った。
(p. 57)