知的・発達障害者に特化したKY州のクリニックから、「迷惑な患者」問題について考えてみる

昨日のエントリー、知的障害者に包括的な医療を提供、the Lee Specialty Clinic(米)で取り上げた
KY州の取り組みについて、院長の一人、Holder医師が去年8月にExceptional Parent誌に書いた
記事を見つけたので、読んでみました。

A NEW WAVE OF PROGRESS IN HEALTHCARE IS COMING
Matt Holder, Md. MBA,
Exceptional Parent Magazine, August 24, 2014

その中から、いくつか個人的にメモしておきたいところを、以下に。

・まず、冒頭にある以下のフレーズがこの問題の肝だな、と。

a solution to the growing healthcare crisis facing people with intellectual and developmental disabilities (IDD)


・昨日のエントリーで紹介したNYTの記事の中にあった「公衆衛生長官の言及」とは、
こちらの記事によると、2002年の公衆衛生長官のレポートの中で
知的・発達障害者(IDD者)の医療がいまだ理想から程遠いと明記されたこと。

その10年後には、米国医師会が、
IDD者が十分な医療を受けることができていないとする決議を行った。

いずれも、挙げている主な問題点は3つで、
医師の教育研修の不足、医療サービスへのアクセスの不十分、IDD者への医療への財政予算の不足。


・その結果、IDD者の健康状態に関するデータとして、

8人に1人に歯の痛みがある。
5人に1人は骨密度が低い。
4人に1人は眼鏡をかけるべきなのにかけられていない。
3人に1人は必要以上の薬を飲んでいる。
約半数に医療職から断られた経験がある。


・the American Academy of Developmental Medicine and Dentistry(AADMD)が
これまでにIDD者への医療のモデルに必要としてきた要点は以下。

1) IDD者のニーズに特化したクリニック・システムの確立が必要。
2) 専攻を問わず、医師、歯科医師、その他医療職を目指す学生がIDD者について研修でき、彼らと関わる体験 ができるよう、それらのクリニックが教育を担う場となること。
3) それらクリニックが医療の質向上のためのアウトカム研究を行うこと。
4) それらクリニックはその性格からして学際的な機関として、各専門領域が十分にコーディネイトされた専門横 断的なケアを提供すること。
5) 財政的に実現可能で、全米で再生可能なモデルであること。


・The Lee Specialty Clinicのオープンは2014年6月11日。
 ちょっと気になることとして、同クリニックは cost-basedなので、
 クリニックの専門職は患者に必要なだけ時間を使える、と書かれていること。

 昨日のNYTの記事ではKrey Kramerさんはメディケアの患者だとされていたけど、
 そのあたりの同州の仕組みは分からない。
 一方、待合室で待っていた一家は、確かに裕福そうに見えた。
 

・クリニックのオープン直後の、Holder医師によるこの記事では、
 患者ベースはケンタッキー州55郡で1200人とされているのに対して、
 昨日のNYTの記事では現在500人で今後増えていく予定とされているので、
 思ったほどには伸びなかったということなのか?
 そこに上記のcost-basedの問題が関わっているのかいないのか?
 

・地域の在宅患者だけでなく、施設入所の人たちへの医療も担うとされているのは、
 訪問診療や訪問看護、訪問リハも提供するということなのかは?


・記事の末尾の辺りで書かれている課題は、

●ひとつのクリニックではなく、
ケンタッキー州のクリニックのネットワーク化が必要。

●次世代の医師の育成が必要。

(Lee Specialty Clinicでは
様々な専門領域の医学生のローテーション研修を引き受け、
また世界中の医療職を対象に高度な研修プログラムも用意されている)


      ―――――――――――――――――――

2つの記事を読んで、頭に浮かんだ諸々を
ざっとメモ的に書いておきたい。

○海が1歳で母子入園した県立障害者リハビリテーション・センターには当時、
 整形外科、小児科、歯科、PT、OT、ST、相談室が常設されており、
 他に、耳鼻科と眼科が2ヶ月に1度(だったと思う)あった。

 施設のすべてが障害児者を前提に作られているので、
 他の総合病院に比べれば、はるかに連れて行きやすく、
 またスタッフもはるかに温かかった。

 娘を家で育てながら、その体の弱さにほとほと困っていた幼児期、
 様々な専門職が揃っているリハセンターは
「なにか困ったことがあったら、とにかく、まずはリハセンター。
誰かに相談してみれば、どこかに繋がって解が得られる」と思える
とても心強いところだった。

 なので、Lee Specialty Clinicについて読みながら、
 障害者に特化した医療施設という点では
 日本ではすでに整備されているのかも、と思った。

○その後、リハセンターには、小児整形と小児神経の外来が別途できて、
 泌尿器科ができて、 内科の医師に非常勤で来てもらえるようになり、
 総合相談室ができ、この春には高次脳機能センターができた。
(私の知らない新設科や部署もあるかもしれない)

○医療だけでなく地域福祉もそこでちゃんと連携している点では
 日本の支援モデルの方がはるかに進んでいると思う。
 (ただ実際のどういう支援がどのくらいあるかには制度の限界や
 その他、諸々の限界がいっぱいあるんだけど)

○個別支援計画やチーム・ケアが本当の意味で機能できれば、
 大きな意味ではLee Clinicが目指す専門領域横断的な「包括的なケア」と同じか
 それ以上が実現されているとも言えるのかもしれない。

○ただ、重心児者では身体障害が重いためにリハセンターの医療の対象となるけれど、
 身体障害が軽い知的障害児者、発達障害児者、高次脳機能障害児者については、
 医療的支援が十分に受けられない実態がある、という点では
 ケンタッキーの記事での指摘と違わないんじゃないだろうか。

○また重心児者であっても、プライマリー・ケアを小児科医が担っているために
 成長とともに、どうしても「重症児者医療」の外を頼らざるを得ない事態が出てくる。
 その際には、一般医療における重症障害者への無知・無理解・偏見の問題が避けがたく、
 上記の人たちと同じ問題を抱える可能性がある。

(この点では、Lee Clinicもプライマリー・ケアに留まっているので
 ここで引き受けられる範囲を超える病気の際には、このクリニックの患者さんも
 また同じ問題に直面することになると思う)

○私たちリハセンター内の療育園にお世話になっている親の思いとしては、
 これから高齢化、重度化を避けがたい子どもたちのために外科を、という強い願いがあるのだけれど、
 今のところ泌尿器科で留まっているし、外科ができても外部の医療を必要とすることは変わらない。

○その代わり、入所者を引き受けてくれる総合病院が近くにあって、
 そうした連携ネットワークはこれまでの関係者の尽力のお陰だと、感謝している。

○で、この一連の記事を読んで浮かんだ疑問は、
 障害児者への医療を広範に保障するための、そうしたネットワーク作りは
 個々の医師や医療機関の努力に負わされるべきものなのか、ということ。

○一方で、私たち親子の10年以上前の「転院・手術」トラウマ体験は
 決して例外的な体験だったわけではなく、基本的に
 一般の病院や医療職にとって重症障害児者を含むIDD児者が
 「よく分からない、いつ何が起こるかわからない、手のかかる迷惑な患者」であり、
 「できれば関わりたくない、来てほしくない患者」であることに変わりはないと思う。

○この問題の解決のために、
 Holder医師らが言っているし、日本でも多くの医師が努力してくださっているように
 解決策のひとつは医学教育におけるearly exposureなのだろうと思うけれど、

 私はもう一つ、昨日のエントリーでも書いたように、医療全般の中に、
 特に慢性疾患患者や障害児者の場合には家族や介護者の「体験知」への尊重の姿勢が
 涵養されることが、もう一つの解決策になるのではないか、と思う。

 例えば、リハセンターを運営する福祉事業団のまったく迷惑な人事の都合で
 うちの娘の主治医は、この10ヶ月の間に2回も変わった。
 つまり、主治医が9ヶ月間で現在3人目ということ。

 A医師はもう長いこと主治医だった方だけど、
 ちょうど海の抗けいれん薬の微調整に入った直後のタイミングで異動になった。

 春に主治医となった新任のB医師にはA医師からの引継ぎも十分だったし、
 当初から良好なコミュニケーションが取れたけれど、
 検査数回の後に、相談して当初の減薬方針をしばし棚上げにしたところで、
 秋にB医師は突然に他施設へ異動。

 新たな主治医となったC医師も春の着任だったけど、
 私は秋までにC医師とまともに会ったことはなく、
 つまり半年間で2人続けて初対面の主治医への交替。

 お2人はもちろん誠実な引継ぎをしてくださったと思うけれど、
 たった半年しか関わっておられないのだから、B医師自身が
 海についても親についても十分な知識があるわけではなく、
 どんなに懇切な引継ぎであったとしても、どだい無理がある。
 (もちろんその責任がB医師やC医師にあるわけでもない)

 これは私たち親子にとっては
 娘のことをきちんと分かって、親とも信頼関係ができているドクターが不在で、
 しかも、それが抗けいれん薬調整中のことだという極めて気がかりな状況。

 医師が変わるたびに、
「施設だから説明なしがデフォルト」「素人への不信」という厚い壁に直面させられて、
 まともに相手にしてもらうためには、十分な経験と知識と判断力を備えた親なのだと、
 一から自分で証明してみせなければならないゼロ地点に引き戻されてしまう。

 その困難にメゲそうになりつつも、
 自分からその壁に体当たりしていって、その厚みと取っ組み、その壁を打ち破らなければ、
「ともに考える」関係どころか、信頼関係の構築そのものがスタートしないという、
 ギリギリと悶絶しそうなフラストレーションで、

 それをほんの半年の間に2回も
 それぞれ個性の違う医師を相手に繰り返さなければならないというのは、
 いかに相手がよい人であったとしても、親としては、
 そりゃ、もう消耗甚だしく、胃に穴でも開きそうな気分っすよ。

 (その責任があるのはもちろんB医師でもC医師でもなく、人事の責任者なので、
 いつか責任の所在の上層階にモンクを言いに行くっ。ゼッタイ行ってやるっ)

○一般医療は「正常」からの「逸脱」に対応するんだろうけど、
 障害児者では、もともと医学モデルでいえば一般的な「正常」からは逸脱した、
 「その人」にとっての「正常」という、非常に個別性の高い基準からの逸脱に
 対応してもらわなければならない。

 海にとっての「正常」とは何かを新しい主治医に分かってもらいにくい状況は、
 まさに初めての病院へと「転院」した時の状況にも近く、
 きちんと十分に把握してもらうためには、
 この27年間のカルテを全部読んでもらうしかないのかもしれないけれど、
 そんなことはそもそも不可能なのだし、
 カルテを読めば分かることばかりでもないのだから、

 そこをずっと実体験してきた親(介護者)が目の前にいるのなら、
 その体験知(expertise)を尊重してもらうのが、
 何よりも患者本人の最善の利益への近道だと
 私は思うんだけれど、違うだろうか。

○障害のある子どもを持つ親の「体験知」の高さについて疑問をお持ちの向きは、
 こちらの「あゆちゃんのブログ」の記事をぜひご参照くださいませ。
 http://www.ayuchan.jp/blog/?m=201409

(私の体験知はあゆみちゃんのお母さんほど高くはないけど、
 B医師やC医師が海の血小板8万という検査結果を「低い」とおっしゃった時に、
 「でも、この子の血小板の『正常値』は幼児期からずっと7万から11万ですから
 8万が海にとって特に『低い』というわけではありません」と伝えることができるし、
 何年間分ものカルテをじっくり読まないと分からないだろう、これまでのけいれん治療の推移も
 必要に応じてかいつまんで説明することくらいはできる)

○そして、親がそれだけの「体験的な知」を身につけられるように
 日ごろからきちんと十分な説明をし、親と意思決定を共有しておいてもらえることが
 いつどこでどんな医療を受けることになるか分からないIDD者本人の
 最善の利益を守る近道だと私は思うんだけれど、違うだろうか。

○もう一つ、医療現場のこうした障害に対する無知や無理解や偏見から
 知的障害児者が適切な医療を受けられないでいる問題の周辺で、
 親子は様々な傷つき体験を重ねてきているのだという事実の重みを
 もうちょっと、関係の専門職に認識してもらえないものか、

 言い換えると、この問題が本人や家族にとっては
 いかなる体験となり、傷つきやトラウマとなり得るかということに
 もうちょっと想像力を働かせてみてもらえないか、と思うのは、

 子どもの医療をめぐる意思決定において、親が
 医師にとっての「正解」を選択できないと言われる問題
 (よく耳にする例では「手術すれば助かるのに親が拒否する」)の背景に、
 これらの体験を通して積み重ねられた医療への根深い不信があるのではないか、

 もしそうだとしたら、
 そうした体験からの影響を親が乗り越えるためには何が必要なのか、という
 問題解決のヒントも、

 様々な立場の関係者がそれぞれの体験を共有しながら
 この「迷惑な患者」問題のありかと、そのありようを、
 正面からきちんと認識し、「ともに考える」ことからこそ得られるのではないか、

 少なくとも、私はそのヒントをそのように得られるものなら
 海のために得たい、と思う。

○私が10年以上前の「転院・手術」トラウマ体験を身近な重心医療の医師に話すと、
 まずは最初のリアクションとして、たいていの方が、
「それは医学的な配慮があってのことだったのを、医学に無知なあなたが
 十分に理解できずに、誤解しているのですよ」というニュアンスの「解説」で、
 さりげなく当時の外科医の判断を擁護されるのが常なのだけれど、

 なおもメゲずに、そうではない詳細までしつこく話すと、そのうちに
「まぁねぇ、必ずしもウェルカムというわけじゃないからねぇ」などと風向きが変わって、

 そこから先を聞いてみれば、実は「患者を引き受けてもらえない」問題として、
「迷惑な患者」問題には重心医師も泣かされていたりする。

 つまり重心児者の親子と、重心医療の医師とは、
「一般医療において重症児者は『迷惑な患者』」という同じ問題を
 それぞれの立場で経験し、それぞれに困っているわけなのだから、

  重心児者を含むIDD者の「迷惑な患者」問題に
 当事者と家族と医療職をはじめとする多職種が、それぞれの体験を共有しつつ、
 ともに考え、ともに取り組むことはできないだろうか。

 それによって
 米国のように医師会レベルや国の医療行政のレベルで
 この問題を認知してもらうことはできないだろうか。
 
 なによりも、
 そうして、当人を囲んで、家族と障害者医療の関係者とが
 ともにこの問題を考え、ともに取り組むことを通じて、
 親や家族に根深い医療への不信がぬぐわれていくんじゃないだろうか。

 そのことに私は親として希望を見出したい、と思うから、

 これについては、課題として、
 これからのエントリーでも繰り返し、考えてみたい。