カナダ最高裁判決文までがPASをPADと置き換え

6日のカナダ最高裁の判決文の冒頭部分と、
ロドリゲス、テイラー、カーター訴訟の事実関係について書かれた箇所を
ざっと読んでみたところ、

とても単純な疑問に突き当たりました。

刑法で禁じられているのは「自殺幇助」なので
この判決も刑法の禁止に直接的に言及する際には
assisted suicideという文言を使っているし、

ロドリゲス判決への言及でも
the blanket prohibition on assisted suicide を支持した、
となっています。(93年判決がその文言で書かれているため?)

ところが、その他では、
physician-assisted dying とか assistance in death などが
一貫して使われており、

上記の刑法規定についても
the prohibition of physician-assisted dyingへと
表現が置き換えられている箇所が目に付きます。

また、対象者要件では
「termination of life に同意している」ことと表現されています。

どこかの論考で指摘されていましたが、
刑法は自殺幇助を全面禁止するもので、
とりたてて医師に言及されてはいません。

なので、今回の判決は、
刑法の自殺幇助の全面禁止から医師を除外するものと
受け取れないことはないのですが、

その一方、上記のように、
判決そのものは assistance in dying への権利を合憲と認め、
その上で、議会に対して1年以内の法改正を求めている、となると、

この判決は、判決自体はそこを明確にしないまま(文言の操作により?)、
医師による自殺幇助のみならず積極的安楽死も射程に合憲と認めて、
その法整備を議会に求めたもの、ということにならないでしょうか。

もともとメディアの用語の使い方に混乱があるために、
そこのところが非常に分かり難い議論になっているのですが、

というか、医師が「緩和ケアではないぞ」と突っ込んでいる以外には
判決が文言によって対象概念を拡大した可能性の指摘を
今のところ私は見ないのですが、

それとも、その判断も議会に委ねられたということなのかなぁ?

それで、今度は判決の後半辺りを
つまみ食い的に覗いてみたところ、

セクション120に「すべり坂」論を否定する以下の下りがありました。

Finally, it is argued that without an absolute prohibition on assisted dying, Canada will descend the slippery slope into euthanasia and condoned murder. Anecdotal examples of controversial cases abroad were cited in support of this argument, only to be countered by anecdotal examples of systems that work well. The resolution of the issue before us falls to be resolved not by competing anecdotes, but by the evidence. The trial judge, after an exhaustive review of the evidence, rejected the argument that adoption of a regulatory regime would initiate a descent down a slippery slope into homicide. We should not lightly assume that the regulatory regime will function defectively, nor should we assume that other criminal sanctions against the taking of lives will prove impotent against abuse.


なるほど「カナダが安楽死と殺人容認へのすべり坂を落ちていくこと」を否定するなら、
やっぱりこの判決が対象としているのは医師幇助自殺PASのみなのでしょう。

(後半の2度目の言及では何故か「殺人へのすべり坂」と
安楽死」が抜けているのがちょっと気にはなりますが)

でも、PASだけを対象としているなら、なぜ、
明確にphysician assisted suicideで判決文を通さないのでしょうか。

判決文の大半の箇所で、わざわざ
PASをPADと言い換える必要がどこにあるのか。

PADへの文言の置き換えには、
医師が自殺目的で毒物を処方する、PASと称されてきた行為は
「医師の援助を受けて死ぬこと」であって「自殺」ではないのだ、という主張が
色濃く匂っているのですが、

でも、これはとてもおかしい。

なぜなら、この判決は
「自殺幇助を全面的に禁止している刑法」の規定について
憲法で保障された「生命と自由と安全の権利」を侵すものと判断したところが肝なのだから、

もしもPASは「自殺」ではないと一方で主張するのであれば、
上記の理路は筋が通らないことになる。

PASと称されている行為は「自殺」ではなく
単に「医師の援助を受けて死ぬこと」に過ぎないと主張するなら、
それが憲法違反であろうとなかろうと、もともと
自殺幇助を全面禁止した刑法の対象にはならない、という論理になるはずでは?

こうした、論理性も法的厳密さも欠いた判決文の文言からは、
6日以降ちょこちょこと出てきている「最高裁が司法の最高府であることを放棄し、
アクティビズムに成り下がった」といった批判を思います。

それにしても、
最後の1文、すごい。

「規制の仕組みが十分に機能しないと簡単に思い込んだり、
人の命を奪うことを禁じたその他の罰則規定では結局は
濫用を防げないと思い込むべきではない」ですと。