結城康博『孤独死のリアル』


個人的にメモしておきたい点のみ。

① 55歳以上を対象とした内閣府の意識調査で
「治る見込みがない病気になった場合、最期はどこで迎えたいですか」との問いに、
半数以上が「自宅」と答えていることを論拠の一つとして、
政府は在宅医療・在宅介護の施策を推進しているが、

この調査は自立生活を送っていて意思決定能がある人が
将来の可能性を想像して答えているからそうなるのであって、

現実には家族への迷惑を避けるために
「病院や施設で」と考えている人のほうが多いのではないか。

② 政府の施策誘導で「病院死」はこれから減ることが予想され、
それにともなって「孤独死」も必然的に増えていく、と著者は予測。

 老人福祉の仕事を経て研究の道に入った筆者の経験から言えることは、人生の最期は、けっきょくは、本人と社会の関係によって成り立っているということである。自分を最期を、どこで、誰に看取ってもらえるかは、そう希望通りにはいかないものだ。
(p. 128)

 繰り返すが、自分の人生の最期を、自分ひとりで決めることができない時代になってきている。そのことをふまえながら、孤独死問題は、考えていく必要がある。
(p.129)


この現実認識に立つと、

そうした現実にもかかわらず、
医療を拒否して、あるいは医療の手を借りて「自ら死を選ぶ」という方向でだけは
「自己決定権だ」「個人の選択だ」と意思決定を尊重しようという話が
ことさらに喧伝されることの胡散臭さも、際立って見えてくる感じがする。


③ ここに、エピローグにある小見出し
「政府が唱える『自助』と筆者が考える『自助』の違い」の内容を重ねると
大変興味深い。

 政府の唱える自助は、具体的には「他人に迷惑をかけないように、自分のことは自分で責任を果たす」「公的な機関に頼らずに、自分で身のまわりのことを行い、どうしても困った時に公的サービスを利用する」「財政的にも厳しく福祉予算も限界があるため、見守り活動は地域住民同士で担ってもらう『互助』機能に期待する」といった理念に基づくものである。
 それに対して、筆者は、「まわりの助けを借りながら『自助』を育む」というふうに考えている。

……【中略】……

 はじめから(政府の言うところの)「自助」能力が低い人に、「自分で頑張ってください」と言っても、それは突き放しただけであり、政府の公的責務を回避したにすぎない。……

……【中略】……

 このまま政府が目指す「自助」に基づく施策が続けば、単なる福祉予算の削減につながり、その代替を「互助」機能に託すだけである。長い目で見れば「地域力」が減退しかねず、結果的に孤独死対策の有効な手段とはならない。
「自助」という言葉は、フレーズとしては聞こえはよいが、単なる公的機関の停滞を意味することになりかねない。そのことに、国民も十分に注意していかなければならない。必ずしも「自助」能力が、十分な人ばかりではないのだから。
(p.203-4)


昨日、読んだPAS合法化批判の論考の
「合法化はごく一部の恵まれた人を利するが、多くを危険に晒す」
「機能不全の医療への正当な怒りを、弱者切捨ての危険な施策へと誘導している」という
主張と重なるような感じがする。