静止画像

何年か前のある日の夕方、
制服を着て、くしゃくしゃの顔に、涙をボロボロ盛大にこぼしっぱなしにして、
がむしゃらな勢いで自転車を漕いでいく高校生の女の子を
見たことがある。

何があったのかな……。

顔のくしゃくしゃ感には、
例えば誰か大切な人が亡くなったとか、そういう重大事の悲壮さはなくて、
悔しいとか、悲しいというのとも違い、

たった今、この子は大好きな人から別れを告げられたばかりなのでは……と、
オバサン的には勝手にそんな想像をした。

ずうううっと昔の自分の思春期にもあった、
そんな夕暮れの切なさを一瞬、心によみがえらせて、

つい微笑ましい気持ちで、見送りながら、

だいじょうぶだよ。
いつか懐かしい思い出になるから――。

見も知らぬ少女の後姿に、心の中で声をかけた。



いつからか、

例えば、車を運転していて交差点で他の車とすれ違う時に、
その車の運転をしている人が後ろの座席の人と話しながら、
弾けるような笑顔をするのを目にした瞬間とか、

ショッピングモールやどこかの駅の人ごみの中を歩いていて、
誰かが誰かに向けて発した一言がくっきりと耳に飛び込んできて、つと目を上げたら、
その一言を今まさに言い終わろうとする人の顔が思いがけず接近して目の前にあった一瞬とかに、

その顔が、静止画像として、
強い印象と共に固定される感じがすることがある。

静止画像になるのは、たいてい、強い歓びとか怒りとか戸惑いとか心配とか
なにしろ、くっきりと生々しい表情を浮かべた顔がふいに目に飛び込んできた時。

その静止画像が薄れて消えていくまでの、ほんの数秒間に、
とりとめもない夢想が頭の中を流れていく。

誰と話していたんだろう。
何を話していたんだろう。

遠いところまで行くんだろうか。
楽しい用事でそこを目指していたんだろうか。
やむを得ず、行かなければならないから向かっている場所だったんだろうか。

家に帰ったら、どんな家族がいるんだろう。
その家族と、どんな部屋でどんな話をしながら、何を食べるんだろう。

分かるはずのない、そんなことが、
分かるはずがないままに、とりとめもなく頭に浮かんでは消える。

いつもの県北の町に向かって車を走らせている時に、野良仕事をしているおじいさんが、
あぜ道にいるもう一人と話しながら、大声で冗談を放ったらしい顔が
そばを走り過ぎる瞬間に、静止画像を作ることもある。

夜には酒を飲む人だろうか。
家族には優しくする人だろうか。
野良仕事の後で、体が痛くなったりはしないんだろうか。
幸せな子ども時代を過ごした人だろうか。
この人の人生にあった一番大きな悲しみって、どんなことだったろう。
どんな手をした人だろう。

ぼんやりと勝手なイメージだけの想像が
いくつか頭に浮かんでは消える。

そして、すぐに忘れる。

自分が住んでいる町を遠く離れた都会に出かけて
信号待ちをしている時に、向こう側で信号待ちをしている人々の中の、
ひときわ垢抜けた、若くて美しい女性に目が止まることもある。

どんな暮らしをしている人なんだろう、と思う。

一人暮らしなんだろうか。どんな仕事をしているんだろう。
休みの日には何をしてすごすんだろう。
私には想像もつかない世界に身を置いている人なんだろうか。

そんなことを思い、その「私には想像もつかない世界」を
想像できないままに何となくイメージする。

というか、
自分には死ぬまで縁のない、覗き見ることもないだろう世界というものが、
この世の中には無数にあるのだという、そのことをイメージする。

世の中にはこんなにたくさんの人間がいる中で、
この女性がどういう事情でか、この時間にこの交差点に立っていて、
その同じ時間に私がこの遠い町の、その交差点の反対側に立っている確率……。

そんなもののことを
ぼんやりと考えてみたりする。

そして、そんなことを考えたことを、
信号を渡りきるころには、すっかり忘れる。

なにしろ世の中には、人がいっぱい生きている。

あの自転車の女の子は、
もう制服の高校生ではなくなって、今はどうしているだろう。

今もこの町にいるだろうか。

この先、死ぬまでの人生のどこかで、
大人になったあの子と私とが、もちろんお互いに知らない同士のまま、
もう一度すれ違う、なんてことがありうる確率……。

そんなもののことを、
ぼんやりと考えてみる。

PCを離脱する頃には、
すっかり忘れているだろうけど。