看護師さんのコーヒー

もう15年くらい前にもなるのだろうか。

海がお世話になっている療育園で
ひどく管理的な師長さんが来てから子どもたちの生活がどんどん狭められていき、
挙句に子どもたちが夕食後に早々とベッドに入れられて
それが保護者には内緒にされていたことが判明したので、

そのことに抗議したら、
あれよあれよという間に、療育園がその一部であるリハセンター全体での大騒ぎとなって
私は「理不尽なクレーマー」に仕立て上げられ、

気がついたら、
巨大な県立組織を相手に孤軍奮闘するしかないところに立たされてしまった。

実際には、海の主治医が共闘してくださったし、
育成課長からも総看護師長からも理解が得られた。

対応を指揮した事務局長も腹の太い人物だったし、
なによりもセンターのトップの所長が途中からは
私の一番の理解者となってくださったから、

(それについては「所長室の灰皿」に)

私が言っていることはただの理不尽なクレームではなく
もっと本質的な大きく深い問題なのだということを
時間経過と共に多くの人に理解してもらうことができて、
その出来事をその後に向けて生かすという方向で事態は収拾された。

その事件の約半年に及ぶ顛末の前半、
まだ事態が大荒れで、所長との面談で良い方向に転換する前のこと。

私が批判していたのは師長と園長であるにもかかわらず、
「spitzibara は、現場の職員がダメだとモンクを言っている」というウソがばらまかれたので
海を帰園させたら看護科のスタッフが誰も出てきてくれなかったり、
発熱して付き添っていたら「早く帰れ」といわんばかりの嫌味を言われたり、
看護科全体からあからさまな敵視を受けていた頃の、ある日の午後の出来事。

海のベッドのそばに付き添っていたら、
看護師さんが部屋の入り口のところにやってきた。

滅多なことでは寄り付いてもらえなくなっていた頃だったし、
そのまま入ってくるでもないので、ちょっと警戒した。

「あのーぉ……」
その人は間延びした小さな声で言い、
いつものうつむきかげんのまま、ちょっとためらった。

テキパキと気がつくというタイプではなくて、
いつもなんとなく他のスタッフから粗略に扱われている気配のある人だ。

いったい何を言われるのだろうと、私はますます警戒を深めた。

「あのー、わたし……」と言った後、
その人は思い決めたように顔を上げると、一気に言った。

「これから休憩に入るんですけど、
それで、これからコーヒーを入れるんですけど、
お母さんも、よかったら、いかがですか?」

この人がこんなにたくさんの言葉を一度にしゃべるのを初めて聞いた。
しかも、こんなスピードで……。

びっくりした。
それで、一瞬なにを言われたのか分からなかった。

「あの、コーヒー。
私のついででよかったら一緒に入れてきますから、
飲まれませんか?」

え? 考えてみたこともなかった。
娘の施設にいて、看護師さんからコーヒーを勧めてもらうなんて。

「え。わ。そんな。いいんですか。
あ、ありがとうございます。じゃぁ、ぜひ!」

慌てて答えると、
にこにこっと嬉しそうに笑って、

「すぐ持ってきますねっ」
そのまま身体を翻して、バタバタと消えていった。

笑っているところなんか、ついぞ見たことがなかった。
いつも無口で、無表情に働いている人だった。

そうかぁ、あの人、あんなにきれいな笑顔をする人だったのかぁ……。

詰め所の奥の部屋で何日か海のそばに泊り込んだ時に
夜勤の看護師さんの夜中の休憩時間にコーヒーとお菓子を差し入れてもらったことはある。
病院とは違って日ごろから関係の深い施設ならではだなぁ、と感激し、
同じ「仲間」として扱ってもらったようで、嬉しかった。

でも今は昼間だし、しかも、こんな状況なのに……。

いや、こんな状況だからこそ、思い切って言ってくれたんだ、と思うと、
その深い思いが、身構え緊張していた心に温かく沁みた。

しばらくして、その人は
ソーサーに砂糖とスプーンを添えたコーヒー・カップを手に戻ってきて、

カップを置いた後、一歩下がってから、

「あの、私も子どもが2人いますから、
お母さんのお気持ち、よくわかります」

言葉が出なかった。
ただ、嬉しくて、泣けて、黙って頭を下げた。

「コーヒー、ゆっくり飲んで下さいね」

看護師さんはそう言うと、
今度は静かに休憩室へ戻っていった。

あの日、少し濃い目のコーヒーが、とてもおいしかった。