竹内整一『「かなしみ」の哲学』
つまり、かぎりあることを「かなしむ」自己の有限性は、同じようにかぎりあることを「かなしむ」他者の有限性と、互いに「ああ」と呼びかけ、呼びかけられる、そのような感情の連動・展開として「あはれ」が「あはれみ」に、「いたみ」が「いたましさ(いたわしさ)」に、そして「いたわり」へとつながっていく。
(p. 105)
(p. 105)
「慈悲」についての『歎異抄』からの引用の後、
本居宣長の「安心なき安心」論について解説した後、
これはのちに「安心なき安心」論と名づけられた大事な議論であるが、この文章で説いているのは、ふたつのことである。ひとつは、この世界は、神々が定めた世界としてあるから、それをそれとして受け止めて生き、死ねばいいのだということであり、もうひとつは、死ぬことはとてつもなく「かなしい」ことで、「かなしむ」以外にはないことだということである。
(p.112)
(p.112)
著者には、このテーマで別の著書もあるようだけれど、
なぜ日本人は「さようなら」と別れるのか、という章で、
なぜ日本人は「さようなら」と別れるのか、という章で、