竹内整一『「かなしみ」の哲学』



こちらでエントリーにしたやまと言葉で哲学する』が初めてだったので、
この人のものをもう一冊読んでみたいと思って図書館で借りてきた本。


 つまり、かぎりあることを「かなしむ」自己の有限性は、同じようにかぎりあることを「かなしむ」他者の有限性と、互いに「ああ」と呼びかけ、呼びかけられる、そのような感情の連動・展開として「あはれ」が「あはれみ」に、「いたみ」が「いたましさ(いたわしさ)」に、そして「いたわり」へとつながっていく。
(p. 105)


「慈悲」についての『歎異抄』からの引用の後、

ここで親鸞がくりかえし強調しているのは、われわれ人間には、どんなに「かわいそうだ」と思っても助けることができないことがあるということである。ここには自力への絶望がある。親鸞の生きた戦乱の時代には、多くのそうした例はあったであろうが、それは、とりわけそうした時代に特殊なことではなく、いついかなる時代においても、「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがた」いというようなことはある。
(p. 99-100)


本居宣長の「安心なき安心」論について解説した後、

 これはのちに「安心なき安心」論と名づけられた大事な議論であるが、この文章で説いているのは、ふたつのことである。ひとつは、この世界は、神々が定めた世界としてあるから、それをそれとして受け止めて生き、死ねばいいのだということであり、もうひとつは、死ぬことはとてつもなく「かなしい」ことで、「かなしむ」以外にはないことだということである。
(p.112)


著者には、このテーマで別の著書もあるようだけれど、
なぜ日本人は「さようなら」と別れるのか、という章で、

「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らないと言ったアメリカの紀行作家、アン・リンドバーグ(1906-2001)……は、世の中には出会いや別れを含めて自分の力だけではどうにもならないことがあるが、日本人は、それをそれとして静かに受け入れ、「サヨナラ(そうならねばならないならば)」と別れているのだと解釈している。 
 如意の「みずから」と不如意の「おのずから」とは、両方からせめぎ合いながら、その「あわい」で人生のさまざまな出来事が起きている。「さようであるならば」の確認とは、そのふたつながらの(むろん挨拶として、いつも意識的ではありえないが、含意としての)確認・総括なのである。
(p. 152)