アトゥール・ガワンデ『死すべき定め - 死にゆく人に何ができるか』 1

『死すべき定め - 死にゆく人に何ができるか』
アトゥール・ガワンデ 原井宏明訳 みすず書房  2016

Amazonの内容紹介は以下。

「豊かに死ぬ」ために必要なことを、私たちはこんなにも知らない

今日、医学は人類史上かつてないほど人の命を救えるようになった。しかし同時に、
寿命が大きく延びたことにより、人はがんなどの重篤な病いと闘う機会が増えた。
老人ホームやホスピスなど家族以外の人々も終末期に関わるようになり、
死との向き合い方そのものが変わってしまったのである。
この「新しい終末期」において、医師やまわりの人々は死にゆく人に何ができるのだろうか?
圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく、迫真の人間ドラマ。

現役外科医にして「ニューヨーカー」誌のライターでもある著者ガワンデが、
圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく医療ノンフィクション。


この本について知った時、まずは例によって、
終末期の過剰医療に警鐘を鳴らしつつ、事前指示書を書いておくことを勧め、
さらに安楽死や医師幇助自殺の容認論を説いた本なのでは、と考えた。

にもかかわらず、読んでみようかと思ったのは、例えば以下のような書評に
「終末期医療とは、死に方・死なせ方を問題にする医療ではなく
 固有の患者が固有の人生を死ぬまで生きることを支える医療であるべきでは?」という
自分自身の考えに近いものを感じて、

もしかしたら、それは著者がインドにルーツを持つことと
関わりがあるのかもしれない、と考えたため。

とても感動的で、もしもの時に大切になる本だ――死ぬことと医療の限界についてだけでなく、
最期まで自律と尊厳、そして喜びとともに生きることを教えてくれる。
――カトリーヌ・ブー(ピュリツァー賞受賞ジャーナリスト)

われわれは老化、衰弱と死を医療の対象として、まるで臨床的問題のひとつであるかのように扱ってきた。しかし、人々が老いていくときに必要なのは、医療だけでなく人生――意味のある人生、そのときできうるかぎりの豊かで満ち足りた人生――なのだ。(後略)
――オリヴァー・サックス(『レナードの朝』著者)


なので、著者の安楽死や医師幇助自殺へのスタンスは確認しないまま、
果たしてどういう立場に立つのだろう、という
不安と興味の両方を抱えて読み始めた。

結論からいうと、
以下の、それぞれ「序」とエピローグの一節が
本書の要諦のように思えている。

 死すべき定めを医学的経験にするという実験はまだ2、30年の歴史しかない。まだ未熟なのだ。そして実際の結果は、実験に失敗しつつあることを示す。
(p. ⅳ)


 何が医療者の仕事なのかについて私たちは誤った認識をずっとひきずっている。自分たちの仕事は健康と寿命を増進することだと私たちは考えている。しかし、本当はもっと大きなことだ。人が幸福でいられるようにすることだ。そして、幸福でいるとは人が生きたいと望む理由のことである。こうした理由は、終末期や要介護状態になったときにだけではなく、一生を通じて必要なものだ。どのように重い病気や外傷に襲われたり、心身がどのように崩れたりしたとしても、中核にある疑問は常に同じである――おかれた状況とこれからの可能性を本人がどう理解しているか? 恐れていることと望んでいることは何なのか? 何を犠牲にしてもよく、何を犠牲にするのが駄目なのか? そしてこの理解を深めるのに役に立つ最善の行為とは何か?

緩和ケアとはこうした考え方を死期が迫った患者のケアに持ち込むために、この二、三重年に芽生えた領域である。この専門分野は進歩を続け、生死とは無関係に他の重い病気の患者のケアにも同じアプローチが応用されるようになった。これは励みの理由になる。しかし、お祝いすることはできない。それができるのは、すべての医療者が担当するすべての患者にこのようなアプローチをとるようになったときだけだ。緩和ケアという専門分化が不要になったときだ。

(中略)

 医師として――そして、実際のところ人間としても――医学で治せない病に罹った人を援助する場合に、治せる場合と同じような意味のある経験をできるとは私は今までまったく思わなかった。しかし、相手が誰であれ、ジュウェル・ダグラスのような患者やペグ・バシュルダーのような知人、また父のようなかけがえのない人であっても、意味のある経験ができると証明されたのだった。
  (p. 261-262 ゴチックはspitzibara)


つまり、まず、現在の医療のあり方や医師の意識では
死にゆく人が死ぬまでを生きることを支えられていない、との認識があり、

しかし、その先で日本の平穏死推進派の医師のように患者に向かって、
「だから医療を自分で拒否して死ね」と説くのではなく、
また治らなければ治療は放棄することが正しいというような大雑把な方向性だけで
事前指示書を書いておくことを患者に問題解決として勧めて終わるのでもなく、

死にゆく人に対して、医療のあり方や医師の意識のありようが、
具体的にどのように変わるべきなのかを模索しようとの問題意識で書かれた本。

エピローグの最後は、
父の遺言に沿って遺灰を家族でガンジス川に散骨する場面で終わっており、
著者はその際に、以下のように感じたと書く。

……悠久の昔から人々が同じ儀式を営んできたこの場所にいることで私たちを超えた何か大きなものと父を繋ぐことが出来たように私は感じた。

(中略)

 ……父は家族をここに連れてくることで、父も何千年にもわたる歴史の一部であることを私たちにわかるようにしてくれたのだった――私たち自身もその一部だ。
(p. 265)


著者自身は決してルーツの宗教観や死生観を持っているわけではないのだけれど、
東洋的感性と簡単に呼んでいいのかどうかはともかくとして、
日本人である私が拙著『死の自己決定権のゆくえ』で以下のように書く時に
自分の中に呼び起こされている宗教的な感性に通じるものをガワンデに感じた。

 ひとつひとつの命が大切なのは、その個々の命が他よりも優越しているからでも、他の命よりも社会にとって有用だったり有意義だったりするからでもなく、ひとつひとつの命がすべて私たち一人ひとりの存在をはるかに超えた大きな「いのち」とつながり、その中に包まれて、また同時にその「いのち」を自らのうちに包み込んで、そこにあるがゆえに大切なのだ、と思う。
『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(p. 200)


欧米の医療倫理をめぐる問題について考えてくる中で、日本では
「海外の先進国ではこうなっているのに日本は遅れている」とばかり言われるけれど、
むしろ日本の死生観や「いのち」の捉え方から欧米に向けて提示できる医療哲学というものが
あるのではないか、という気がしていたし、

実際、8月11日のBioEdgeによるRob Sparrowのインタビュー
Sparrowが言っていることは、森岡正博先生が「無痛文明」論で、あるいは
鷲田清一先生が「弱さのちから」として、とっくの昔に説いておられたことでもある。

そうした著者の感性は、例えば、第1章で指摘されている
近代化に伴って敬老精神に「自立した自己への崇拝」が取って代わったという捉え方にも
顕れている様な気がする。

第2章「形あるものは崩れ落ちる」で著者が詳細に描き出していくのは、
老化によって人に少しずつ起こっていくパーツごとの衰えの実態。
大きな一つの病に襲われる、というのではなく、
それら多様な数々の衰えに見舞われつつ
まさに「形あるもの」が「崩れ落ちていく」ような老いの実態。

それに対して、医学は、例えば大腸がんや高血圧、膝関節痛など
ひとつひとつの病気や異常にしか対応することができず、
それらを複数抱えた高齢者には対処するすべをしらない。

そして医師は「しばしば事態を悪化させるだけに終わる」(p.35)

対処できるとすれば唯一、老年科チームだと著者はいう。

老年科チームがやることは、

……薬をシンプルにすることだけだ。関節炎が治まっているかどうかをチェックする。足爪が切られているか、食事がきちんとしているかを確かめる。孤立のシグナルに気を配り、ソーシャルワーカーを訪問させて家が安全かどうかを確かめる。
(p.35-36)


これはつまり「LIFEをまるごとケアする」ということなのでは?

しかし一方で、老年科は経営的メリットが小さく、広がっていかない。
老年科医の養成も進んでおらず、圧倒的に不足したままだ。

(次のエントリーに続きます)