岸本英夫 『死を見つめる心』


私が読んだのは上記ですが、
講談社文庫もあるようです。

Amazonの文庫版のページから ↓

内容紹介

人間が死というものに直面したとき、どんなに心身がたぎり立ち、猛り狂うものか──すさまじいガンとの格闘、そしてその克服と昇華……言語を絶する生命飢餓状態に身をおいた一宗教学者が死を語りつつしかも、生きることの尊さを教える英知と勇気の稀有な生死観。第18回毎日出版文化賞受賞。

著者について

1903年兵庫県明石市生まれ。東京大学卒業後、ハーバード大学留学。東大教授、東大付属図書館長を兼任。文学博士。1954年渡米中ガンにおかされ、激務のなかで闘病10年、1964年1月逝去。本書はその闘病中の心の記録をまとめたもので、1964年度毎日出版文化賞受賞。主な著作『人間と宗教』他多数。


本書の中で、最も心を強く揺さぶられたのは、
ガンを患うことで死と直面させられる著者が
その生理的、肉体的な恐怖の深さ、すさまじさを描写する胸苦しいほどのリアリティ。

その一つが「生命飢餓感」という表現なのだけれど、
それを説明した描写が、例えば、以下。

……死の恐怖は、生理的である。その点でも、それを、われわれは、食欲にことよせて実感することができる。空腹感、飢餓感は、その当事者にとっては、理屈ではない。胃の腑の底から、押し上げてくる。有無をいわせない。それと同じである。生への執着は、人間の五体の中を駆けめぐり、ところせましとたけり狂う。手足の末端にある細胞の、一つ一つまでが、たぎり立つ。このような、直接的な、生理心理的な死の恐怖の前には、平生用意したつもりであった観念的な解決は、影の薄い存在になってしまう。このはげしさに対抗できるような力を持たない。賢いといわれた人も、学問のある人も、おそれおののき、妄執のとりことなり、身も世もあらぬ取り乱した状態になってしまうのは、これだからである。
(p.150)


……人は思いしらされる。その刺し通すような苦しみが、いかに強烈なものか、そのえぐり取るような苦しみを、心魂に徹して知るのである。人間にとっての死の苦しみというのは、裏返していえば、生命への執着である。生命を断たれようとするものにとっての、満たされざる生命欲の猛烈な抵抗に発する苦しみである。生命の飢えである。
(p. 148)


また、例えば、家族とはなれた米国でガンの宣告を受けた日の夜。

 ソファに腰を下ろしてみたが、心を、下の方から押し上げて来るものがある。よほど、気持ちをしっかり押さえつけていないと、ジッとしていられないような緊迫感であった。われしらず、叫び声でもあげてしまいそうな気持ちである。いつもと変わらない窓の外の暗闇が、今夜は、えたいのしれないかたまりになって、私の上に襲い掛かって来そうな気がした。
(p. 64)


……この数年間に、大小二十回にわたる手術をくりかえしてきた。しだいになれたとはいえ、手術をしましょうといわれると、その都度、またか、という気もちとともに、全身から血の気がさぁっと引いてゆく思いにとらわれる。黒い死の影が、にわかに大きく私の目の前をおおう。死が、いまにも、その黒い爪をのばして、私におそいかかろうとしているのである。私にとっては、死というものは、もはや、単なる観念の問題ではない。直接的な経験の世界にふみこんできているのである。
 このような状況のもとにおかれて、私には、死というものを、どう考えたらよいかという問題が深刻になってきた。それをはっきりさせなければ、一刻も心を休んじていられないような問題なのである。
(p. 30-31)


著者は死刑囚の苦しみを思いを馳せ、
死について考え続け、様々な気づきを重ねていく。

一つは、死は実体ではない、ということ。

多くの宗教が死後の世界を約束するが、
近代人には死後の世界がありうると納得しきれない。
死後のことなど、わからない、というしかない。

 私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視しつづけた。そうしているうちに、私は、一つのことに気がつきはじめた。それは死というものは、実体ではないということである。死を実体と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実体ではなくて、実体である生命がない場所であるというだけのことである。そういうことが、理解されてきた。
(p. 24)


私たちが死について考える時に、
つい「死」という実体があるものを想定し、
生という実体が死という実体に置き換わるかのように考えているけれど、
実は実体があるのは「生命」だけで、
その実体である生命がなくなるのが死なのだから、
死は実体ではないのだ、と。

人は、死に至るまでの苦しみと、死そのものの苦しみを混同しているが、
その二つは混同されるべきではなく、生命飢餓感をもたらすのは後者である、と。

その苦しみをどうにかして和らげるためにどうすればよいのか、
日々、のた打ち回り、苦しみながら、著者は
死が実体でないとの認識に救いを見出していく。

……これを裏返していえば、人間に実際与えられているものは、現実の生命だけだということである。
(p. 25)


そこから著者は、私たちにできるのは、死ぬまでを生きることだけだ、と考える。
どんなにつらく苦しくても、死ぬまでの一日一日を生きていくほかはない、と。

それなのに、私たちは自分が死ぬことを忘れて暮らしている。

そこには、効率性重視の中で人間を機械や歯車のように見なし、
社会に貢献できる「健康者だけを構成員として予想」する近代の社会のありようや、
平均寿命の伸長など、様々な要因があるが、

現に人間が死すべき存在である以上、それで本当に幸福でありうるのか。

著者はその答えとして、
「自分に課せられた仕事の使命をなしとげること」(p.52)にたどり着く。

……自分の命のすべてをあげて、ささげつくしえたときに、人間は、もっとも強い生きがいを感じて、本当に幸福なのだということであります。考えてみますと、ここに、人間生活の、不思議なからくりがあるようであります。自分にとって、もっとも大切なものは、命なのでありますが、その大切な命をすてることができるようになったその時に、私は、自分の命の、もっとも強い生き甲斐を感じ、私は、もっとも幸福である、ということであります。
(p. 51)


死の恐怖から逃れられる唯一の生き方として、
著者はそうした生き方を思い描いている。

当初、恐怖から逃れるために、著者は意図的に闇雲に忙しく働くのだが、
そういうことではなく、自らに与えられた使命に自分の全てをささげ、
おのずからそれに没頭できるような生き方。

私がこれまで使ってきた表現で捉えると、
「自分という個を越えた、何か普遍的なものに向かって、
自分に与えられた使命をただひたすらに果たしていく」ということだろうか。


もう一つ、著者が気づいたことは、
死は「別れのとき」として捉えられる、ということ。

誰しも、人生で避けがたい別れを経験し、
その時には悲しくとも、その分かれに耐えて生きていくことができる。
死とは、そういう別れの最終的なものと捉えれば、死は無ではない、
自分は死んでもこの世界は存在し続けることが実感できる。

そのように、自分が生きてきた人生を振り返り、
自分の周囲の人々を惜しみ、人生のよさを味わいながら
むしろそんなふうに後ろ髪を引かれながら別れていくからこそ、
人は気が狂わずに死んでいけるのではないか、と。

死をそういう「別れのとき」と受け止め、そのときへの心の準備をしながら、
死ぬ時まで、自分の使命に自分をささげつくして
命の実感を感じられる、より良い生き方をすること。

実体があるのは生だけなのだから、
われわれにできることはそれだけなのだ、と。


追記しておきたいこととして、
宗教の役割について論じられている最後の章の議論は
その大半が学者ではない私にはついていけない内容だったのだけれど、

困難な問題に直面した際に、宗教的な解決ができる人とできない人の違いとして
「宗教的なかまえ(attitude)」がある、と論じられている点が
興味深かった。

「宗教的情緒とか宗教的情操」として、
著者は以下のものを挙げている。

大いなるものに接している畏敬の情、すっかりまかせきった帰依献身の情、絶対者に触れている神聖感、無限のつながりを意識する永劫感、雑念雑業に乱されることのない清浄感、新しい境地が開けたという解脱感、等々、……
(p. 211)


一般人に過ぎない私が拙いなりに
拙著『死の自己決定権のゆくえ』の最後の「いのちへの畏怖と祈り」の項目で書いたことや、
ここ とか ここ で書いてみたことなども、

少なくとも部分的には
上記で書かれていることに通じていくような気がする。

ここらあたりのこと、これからも考えてみたい。