竹内整一『やまと言葉で哲学する:「おのずから」と「みずから」のあわいで』



 われわれはしばしば、「今度、結婚することになりました」とか「就職することになりました」という言い方をするが、そうした表現には、いかに当人「みずから」の意思や努力で決断・実行したことであっても、それはある「おのずから」の働きでそうなったのだと受け止めるような受け止め方があることを示している。
(p.8)


 自分以上の、あるいは自分以外の働き、――縁とかあるいは偶然とかそうしたものの中で、人は人に出会い、さまざまな出来事をくりかえしながら結婚という事態にやっといたる。それをわれわれは「結婚することになりました」と表現しているのである。そのような感受性がそこにはある。
(p.14)


「かなしみ」は、けっしてたんなる否定感情ではない。国木田独歩の友人であった思想家、綱島梁川は、より明確に、こう述べている。

……引用、省略……

 もし神や仏というものが存在するならば、それは、まず悲哀の姿をしてわれわれに来るものなのだ、と。それゆえ、悲哀があるということは、それ自体がすでに神と人間とのあるやりとりの現れなのであり、悲哀というものをもつこと、それがすでになかば「救い」なのだ、というのである。

 このように、「かなしみ」は、それを感受し表現することを通して、生きる基本において大切な、他人との共感や、また神や仏(あるいは、宇宙・自然の「おのずから」)といった存在や働きへとつながることができる感情だとも考えられてきたのである。

 今われわれは、「かなしみ」の持っていた、こうした意味や力を、あらためて見なおしてみる必要があるのではないか。

 問題は、「かなしむな」ではなく、きちんと「かなしめ」ということである。
(p.96-97)


「どうせ」の章はあまり面白くなかったのだけど、
次の「いっそ」の章が、「どうせ」と対にして「いっそ」を語り
最後に、その「いっそ」を「せめて」に転じて見せるところ、
唐突で接続していない感じもないわけではないんだけど、

私自身も「どうせ」からは「せめて」を考えるので、
ちょっと面白かった。

 つまり、「どうせ」と認識された、先取りされた否定的な結論を、現在の時点において、さらに「いっそう」あばき立て、促進することが「いっそ」ということである。――「どうせ」駄目になる、ならば「いっそ」壊してやれ……

(中略)

 ところで、『閑吟集』には、こういう小歌もある。

・ただ人は情けあれ 朝顔の花の上なる露の世に
・ただ人は情けあれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古(いにし)へ 今日は明日の昔

 前提の認識は同じである。「どうせ」この世は夢だ、と。しかしここでは、ならば「いっそ」というではなく、そういう言い方に比していえば、ならばこそ「せめて」、「情けあれ」というのである。
(p.122-123)


「あいだ」も、二つのものの関係や距離を表す言葉であるが、「あわい」は、いわば静的な「あいだ」にはない、二つのものが両方から出会いながら、重なったり交わったり、あるいは背いたり逆らったりするという、より動的な状態や関係を表す言葉である。
(p. 133)


この後で、著者は、本書の副題について、
「おのずから」と「みずから」をそれぞれに規定してその「あいだ」を問うのではない、
両者の「あわい」における動的な相関を考えるのだ、と断っている。


また、著者やジャーナリストの鳥越俊太郎氏らが登壇した
2010年9月の「人間・死と生をみつめる」というシンポジウムについて、

 またシンポジウムでは、日本人の死生観には、以上のような「見る」「見られる」意識において「みずから」を毅然と律するだけではなく、生・老・病・死など不可避の「おのずから」の働きを「かなしみ」や「あきらめ」において受容するという、もう一つの大切な側面があるということも話題になった。
(p. 152)

(「もう一つ」とは、ここが「はずかしい」の章で、
「みられる」自分を意識して自分を律する「恥の文化」のこと)


この本の中で一番心に強く響いてきたのは、
196ページに引用されている志賀直哉の「ナイルの水の一滴」の一節。

人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数え切れない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えていえば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。