加藤眞三 『患者の力 患者学で見つけた医療の新しい姿』


これもまた、以下の本で考察されていた
「患者中心の医療」に向けた医療改革を医師が説く本。



全体として、
わぁ、こういうお医者さんもいるのかぁ、と大いに感激し感動するのだけれど、
最近あれこれ考えているのが「生活を支える脇役としての医療」という路線であったり
そこへ上記の松繁本を読んだ直後ともなると、

その加藤医師にして、やっぱり
医療職が説く「医学知」に拘束された「患者中心の医療」という言説という面が
どうしても付きまとっているなぁ、と思いつつ、興味深く読んだ。


著者は、慶応義塾大学看護医療学部教授(慢性病態学、終末期病態学担当)。
専門は肝臓病。

以下の気づきが、まず「並みの医師ではない」気配を漂わせている。

医学部で勤務していた頃、わたしは慢性病という概念を意識することはなかった。……わたしは慢性病の患者を数多く診てきたが、それは臓器別の肝臓病の中で慢性の患者を見ていたのである。慢性病の患者として、肝臓病を診療していたのではない。
(p. 43)


本書の趣旨は「おわりに」にあるように

 わたしの語る医療の物語は、中川米造先生の語りの引継ぎである。中川先生は沢瀉久敬から物語を引き継がれた。そして、わたしは広く市民が参加する物語を構築したいと考えている。新しい時代の医療の物語は一人一人の市民の参加により完成する。その完成のためには、市民が参加し医療者と対話し共に考えることが必要だ。
 最初に、今までの現代医学の物語を一度壊す作業が必要だ。病気は薬だけで治るものではなく、医師に治してもらうだけのものではない。患者の力が必須であること。アリだけが偉いのではなく、キリギリスの生き方も認めるというように。
 しかしもうこれ以上、破壊をすすめて、医療への不信感をあおるだけのことは止めにしたい。現実の世界はそれほど単純ではない。もっと複雑で高度である現実を感受できる社会が、そこまで来ている。共同作業の医療、市民が参加する医療を創り上げていかなければならない。
(p.222-3)


このあと、次のページでは
「良き医療を、そして良き医療者を育てるのも市民である」と書かれ、
医療職の性善説に基いて「意図的な過ちならば、
しっかりとギャフンというまで注意してほしい。
それにより、医療者も矯正されるだろうから」とか、
遠慮するのでも対立するのでもなく水平の関係で医療職を育ててほしい、などと説かれていて、

目下、ごく当たり前の指摘をしただけで個人的に酷い目に遭っている私としては、
医療現場で有無を言わせず上下関係の下位におかれてしまう患者に向かって、
なんというムチャ振りだろう、と絶句するし、

どうして医師は今の医療のあり方を変える必要があると説きながら
医療を変える努力を払うべき責任を患者に転嫁するのだろう、と
いつものように疑問も抵抗も感じるのだけれど、

一方、著者は、松繁本で指摘されていた、
医療の専門知識を独占することによって医療職の権益を維持する仕組みについては
濫用悪用を防ぐためだったという捉え方も一方でしつつも、自覚している。

例えば、
インターネット時代に医師と患者の間で起こりうる知識量の逆転現象を巡っての一節。

 知識で逆転されては、権威を保てないと考える医師は多い。そのため、患者が質問すると、知らないことでも知っているふりをする。あるいは「そんなことを患者は知らなくてよい」と叱りつけてしまう。
……(中略)……
 情報化時代では専門家であっても、知らない情報は知らないものとして認め、患者からの情報を吟味することで支援すれば良いと考えるべきなのだろう。患者もそのようなつもりで医療者に相談すると良いのではないだろうか。
(p.72)


本来の「患者中心の医療」とは、
ここに「支援」という言葉が使われていることが象徴的であるように、
「病と共に生きる主体としての患者への支援」としての医療なんだと思うのだけれど、

だから、そのためには、
生活を離れて患者が身を置く急性期病院で、
常に「命じる人」、「指示する人」、「判断する人」、「許可する人」であり続け、
患者を「教育」し「指導」する対象としか見なしてこなかった「主役」としての医療職が、
患者の生活の場で、患者の生活を「支援」する「脇役」としての医療職へと
発想を転換してもらうしかないんじゃないか、と
私はこの頃すこしずつ考え始めているのだけれど、

個人的な体験からは、
この下りの「権威が保てるかどうか」という問題、要するに、
医療職、特に医師にとっては、すべからく「権威」の問題なのか、
医師の個人的な自尊感情や、あるいは集団的な権威保持の問題でしかないのか、
でも、それでは結局、誰のための医療なのか、と
疑問を感じることが、あまりにも多い。

ちなみに、この下りに続いて紹介される「新ミレニアムの医師憲章」は、それなりに面白い。

パッと読んでの感想としては、例えば、
「私は高齢者には延命治療は一切しませんよ。それでいいなら引き受けます」と
あらかじめ言い渡す在宅医のことを最近よく聞くのだけど、
何が延命かの判断は個々に目の前の状況でしかできないことを思えば、
個々の医師が原則の(1)と、責任の(7)のバランスを適切に保つことは
案外に難しいのではないか、というのと、

医師の責任の(7)と(8)と(9)あたりが
特にミレニアム色の出ているところなのかなぁ、ということなど。


もう一つ、著者も松繁氏と同じく
医療職による「『患者中心の医療』という言説」の欺瞞を見抜いてはいる。

ある研究会での「患者中心の医療は本当に健康に良い影響を与えるか」という発表について
以下のように書かれていて、鋭い。

 ここには、医療職の下心が隠されている。患者中心とは言いながら、それは検査の結果をよくするための方便に過ぎないからだ。真の患者中心であれば、検査が良くなるかどうかが最終評価の対象ではないことは自明のことだ。
(p.187)


ただ、これに続いて、書かれている次の下りは、
この人もまた同じ松繁氏の言う「医学知の拘束スペクトラム」から自由ではないことを
思わせられるのだけれど。

 医療者は、患者の多様化した価値観を推し量ることは出来ない。そうであれば、医療者は、医療者側から情報を提供するだけでなく、患者が何を大切にしたいのかをよく聴き、相互のやりとり、対話の中から患者にあった医療を探り出し、提供することが必要となる。医療者も患者も、双方にコミュニケーション力が求められる。
(p. 187)


これでは、医師が適正な「患者中心の医療」を考え、提供できるために、
つまり医師が「医学知」を用いるために必要な患者とのコミュニケーションでしかない。
つまり、主客は加藤医師においても、いまだ逆転していない。

なので、これだけ「患者中心の医療」とか「本人中心」とか
「患者の自己決定権」だの「全人的医療」だのと言われ続けて何十年が経っても、
医療現場の実態としては、

 重藤さん(spitzibara注:乳がんの治療法を巡って主治医と2時間の激論を繰り広げた人)のように自分の要求を主張する患者が現れたとき、ほとんどの医療職は驚いてしまうだろう。あるいは、そのような患者をモンスターペーシェントと呼んでしまう場合もあるかもしれない。
(p.188)


でも、著者がどこかで書いているように、
確かに医療も社会もすぐには変わらないのだから、
それぞれに自分が今いるところでの地道な努力が必要というのは、その通りだし、
著者が大学病院の医師としてその努力をしてくださっていることにも頭が下がる。

著者は慶応大学の医学部、看護医療学部、薬学部の合同授業に、この重藤さんを講演に招き、
モンスター患者あらわる――あなたならどう対応する」というタイトルで
講演後にグループ討議をさせた。

3年前の最初の年は、医学部生がリーダーとして仕切って他学部の学生が萎縮したが
その後、少しずつ変わってきているとのこと。

「患者中心の医療」には、病院の世界の「職種ピラミッド」の解体が不可欠だと
私もずっと考えてきた。

医療職に留まらず、介護職や支援職もフラットにものが言える本当の意味でのチームケア。
そこに患者本人と家族がチームの一員として加わり、
病や障害と共に生活している主体として尊重されること。

つまり、誰を支えるための、誰のための支援なのか、が明確にされ、
チームのどの職種にも同じく共有されることが必要だと思っている。

その点では、著者は
チーム医療に患者を一員として加えることは提唱しているし、
患者と医療職の「水平の関係」を繰り返し強調するのだけれど、

そのために「専門家として医療へ参加する患者像」として、
以下の3つを原則とする「解決志向アプローチ(SFA)」モデルが提示されるのが興味深い。

1. 医学モデルに基づかない。
2. 解決を求めている本人がその専門家であると考える。
3. 治療者は解決を見つけるプロセスを援助する専門家である。
(p.65)


この3原則って、「専門家として医療へ参加する患者像」モデルというより、
むしろ「患者との関係性を捉えなおして援助する専門家」モデルだと思うんだけど。

で、その微妙なズレが改めて別の形で露呈するのは、
このモデルに続いて著者が提唱する
患者を一員に加えて患者学によって目指す「新しい時代の医療の構図」(p.66)。

この構図が、そうしたチームで「病気」に対応する構図に留まっていること、
そのためにチームに介護や支援の職種が含まれていないこと(事務職は含まれている)には
「病院の医療」視点の限界があると思う。

「病気」に対処するのでは、
著者自身がモデルとした SFAが否定する「医学モデル」そのものだし、

チームが取り組むべき課題は「病気」ではなく
「病(障害)とともに生きていくその人」をいかに支援するかという問題として
設定されるべきなんじゃないだろうか。

それで初めて主客(患者―医療職の関係と同時に生活―医療の関係)が逆転し、
本当の意味での「患者中心の支援」を志向することが可能になる。

……ということは、やっぱり
「患者中心の医療」で留まってちゃダメなんじゃないだろうか。
それでは「医療の中に生活」を置いてしまうことになる。

「生活や人生、病と共に生きるということ(LIFE)の中に、
あくまでもその一部として医療がある」というのが
患者や家族にとっての医療の置き場所なのであるなら、
「患者中心の医療」のあり方の模索も、それに沿って
「LIFEを支える多くの支援資源の一つとしての医療」の模索であるべきじゃないのかな。

その意味で、
今後、地域包括システムが目指すべき支援のあり方と、
そこで医療が担うべき役割とそのあり方を考えるなら、
急性期医療を担ってきた病院の文化からいったん離れて、
治らない障害や難病や慢性病を抱えた人たちが医療とどのように付き合ってきたか、
医療にどうあってほしいと望んできたか、ということに耳を傾け、
まずはそこから学ぶべきことが沢山あるんじゃないのかなぁ。

著者は、患者サイドの試みとして、
内部障害を分かりやすくする「ヘルプカード」とか「慢性病患者ごった煮会」
喘息患者での「認定熟練患者」制度(英国のEPPの日本版?)、
NPO法人ささえあい医療人権センターコムル」など
様々な取り組みを紹介している。

障害者運動やその周辺で行われてきた取り組みと類似なものが多い気がして、
医療の世界は、ウーレットが指摘する生命倫理の世界と同様か、たぶん、それ以上に、
障害者運動の世界が見えていないし、見ていないのだろうなぁ、と改めて考えさせられる。

それはやっぱり
上記の、「病気」に対処するための「新しい時代の医療の構図」の限界と同じく、

「病院の世界」から見えるものしか見ていないから
「患者」が病院の外で日々の暮らしを営む「生活者」であることを捉え損なったまま、
「医学知」の拘束スペクトラムの中で「患者中心」が模索されてしまうことに
つながってしまっているんじゃないのかなぁ。

これから先、医療が高齢化社会で担うべき役割や、医療も介護もが
地域包括支援システムの枠組みに落とし込まれていくことを考えても、

「病院の世界」から見て考える「患者中心」じゃなくて、
むしろ「本人の生活の場」から見て考える「その人中心」を支える脇役にならないと
本当の意味での「患者中心の医療」は実現できないんじゃないのかなぁ。

そこらへんで、生命倫理学だけではなく、医療こそ、
患者からだけではなく、むしろ障害当事者や障害者運動から学べることが
沢山あるような気がするんだけどなぁ。


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その他、ワクチンと脳死臓器移植と尊厳死法制化についての
著者の見解が面白かったので、それらについてメモ。

「ワクチンで病気を予防する」という医学モデルのスタートは
ジェンナーが18世紀末に開発した天然痘ワクチン。

我が子に接種実験をして開発した美談の陰で、
実は接種したのは使用人の子どもであり、
ワクチンの後には本物の天然痘まで接種した事実を指摘。

ワクチンにはこうした美談と
100%有効であるかのようなイメージが付きまとっていることを警告。

インフルエンザワクチンについても、
効かないというのも効くというのも「どちらも正しい」という。

有効性は科学的に証明されているが、
感染予防の有効性はせいぜい30%程度だから、過信することは逆に危うい、との指摘。

脳死判定については、

 偽装といえば、脳死の判定も偽装である。脳死は全脳の死ということになっているが、実際には、体温の恒常性が保たれ、抗利尿ホルモンが出され血圧が保たれている状態で判定をされており、間脳や下垂体の後葉が働いていることは間違いない。明らかに全脳の死ではない。
(p. 106)


尊厳死法制化については、
著者は2012年10月16日の日本宗教連盟主宰「第6回宗教と生命倫理シンポジウム」
「いま、尊厳死法制化を問う」の発言者の一人。

余命宣告は真に科学的な医師なら断定などできないし、
ある意味で「呪文」だから、呪文にかけられないよう聞くな、信じるな、と。

そして、
「法制化を推進する人や組織が表明していることと、法律案の真の狙いにはズレがある」
(p. 135)

 ……本法律案は延命措置を中止する際に、医療者の免責を可能とするものである。患者の権利を擁護するためのものでないことは、このことだけでも明らかだ。本法律案が患者の自己決定権のためであれば、患者の意思の尊重を求め、患者の意思に従わない医師を処罰する法律が必要となる。そうでないところに、真のねらいが隠されている。
 本法律案は「むだな医療」を少しでも減らすことに真のねらいがあるように思われる。同法案の中の「延命措置」という言葉に、「むだな医療」という価値観がすり込まれていることを見逃してはならない。
(p. 136)