小松美彦『生を肯定する いのちの弁別にあらがうために』



小松美彦氏と、
香川知晶、市野川容孝、荒川迪生、金森修小泉義之、片山容一各氏との対談。

第一章の香川氏との対談は本書のための録り下ろしで
その他の章は『現代思想』その他で2006年から2013年に行われた対談録。

現代思想』に掲載になったものはその段階で読んでいて、
その中の一つは前のブログでエントリーにしている ↓
「尊厳死を巡る闘争:医療危機の時代に」 1(2008/3/2)

それから市野川氏との対談を読んだ2008年には
市野川氏が「積極的安楽死」と「医師幇助自殺」の区別がついていないことに
チョーびっくりした。

それやこれやで半分くらいは既に読んでいることになるので、
この本が出たことは知りながら手にとるのをつい先延ばししていたのだけれど、

来週末にこちらの小松先生の講演を聞きに行くので ↓
http://blog.goo.ne.jp/abdnet/e/9cf1199f0064be9da40109035500a909

このあたりで復習・予習しておこうと思い、

本当は『生権力の歴史―脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』の方を
読むべきだとはずっと、これも出たときから思ってはいるのだけれども、
あちらは難しそうなので今回もメゲて、こちらに。

でも、学者との対談はおおむね小松氏の『生権力の歴史』への
各氏の評価とツッコミが軸になっているので、ここに収録された対談を通じて、
小松氏のこれまでの仕事と、その一つの集大成としての前著の内容の横顔くらいは
透けて見えてくる。というか、素人は見えてきた気になれるからコワい、というか。

それぞれの先生方のツッコミが向かうところの一つが、
尊厳概念を使いつつ尊厳概念に拠る「尊厳死」を批判・否定することの限界のあたりなんだけど、
突っ込み方やそれが出てくる発想が微妙に異なっていることが興味深くて
とても考えさせられる。

けれど、これまで考えてみたこともないところから
そういうのが繰り出されてくる斬新さを感じたのは小泉氏だった。

とりわけ「え?」と、つんのめるくらい新鮮だったのは、
中絶の主体は女性だと見るから間違うのだ、という指摘は私自身も考えてきたことだったけど、
私はそこで「社会が女に中絶させるのだ」と考えてきた。

小泉氏は中絶の主体は家族だ、という。

受精卵廃棄も中絶も、リベラル優生の主体は個人じゃなくて家族だ、
家族を抜きにして生権力の問題は語れない、と。

う~むぅ。

それから、権力を知的障害者が生かすようになったのは
知的障害者への福祉で儲けることができるようになってからだ、という指摘も。

小泉氏が小松氏に
「たとえば脱医療、脱病院という動機は認めませんか」(p.236)と問うていることには
その問い方も含め、いろいろと引っかかっているんだけど、
これは、もうちょっとぐるぐるしたい。

その先で、小泉氏は、
結局のところ、小松氏の原理主義の(と小泉氏が言う)尊厳死批判は、
もっと医療を、もっと福祉を、もっとケアを、ということになって、
医療と福祉の現状追認に終わり、医療と福祉に対する幻想を広めているだけだと批判する。

これは、そのまま障害者運動の尊厳死批判にも通じていくところがあると思う。
(障害者運動は医療と福祉のあり方も同時に問い直しているので
ご本人が「医療と福祉には突っ込めていない」と認めている小松氏とはその点は違うけど)

それは、
「もっと福祉があればどんな重症者でも地域で自立生活はできる」という
障害者運動の主張に対して、私自身が感じている抵抗感でもあるし、

一方で、小松氏の長期脳死の事例の扱い方に
私にも釈然としないものがないわけではない。

「わかりやすい」それらのどちらのケースでもない
施設で暮らす重症者の娘の「家族」としては、
そこにある、あまりに多くの「説明が必要なこと」や「説明が不能なこと」を前に、
それらが複雑に絡まりあった「わかりにくさ」を、
自分自身の痛みをコントロールしながら冷静に検討していくという作業には
とてもじゃないけど手を出せないままでいる。

それから小泉氏が
iPS細胞に巨額の資金をつぎ込むくらいなら
それで人工呼吸器を改良すべきだとスパンと言ってしまうのが面白い。

私も、介護ロボットに資金をつぎ込むくらいなら、
介護労働者の処遇改善しろ、と思うけど、
それがそうはいかないところが、やっぱり「制度の問題」というよりも「経済の問題」
だからつまるところは「権力の問題」なのかなぁ、と思ったり。

実際、一つの対談ごとにエントリーを書きたいくらいなんだけど、
そうもいかないので、

ここでは、前にも読んでいたにもかかわらず、再読しても
一番ぐいぐい引き込まれて面白かった片山容一医師との対談から、
メモしておきたい片山医師の指摘を。

・急性期意識障害は覚醒障害、植物状態認知障害

・DBSを植物状態に応用できると考えたのは、植物状態にまだ覚醒障害が残っているとしたら、覚醒状態を改善して認知機能のリハビリテーションを併せてやれば、との思いだった。DBSが直接的に植物状態を改善するというのは誤解。

・脳の働きが部位ごとに決定されているとする局在論を片山氏は否定。

……脳はそんなふうに画一的に働いているわけではありません。その脳がどのように世界と関係してきたかによって、それぞれの部位の働きも大きく左右されるのでしょう。脳の働きは、世界との関係において、世界との関係を再生産し続けると言えるかもしれません。
(p.263-4)

ぬで島次郎氏『本』2008年1月号で「脳科学ブームとロボトミー」。今のニューロエシックスにはロボトミーに対する総括がないことへの批判。それがない限り、脳科学には今後同じ過ちを繰り返す可能性がある、と指摘。

・それに対して片山氏は、1940-60年代の精神疾患を対象にロボトミーをやったのは精神科医。定位脳手術は中枢性疼痛や不随意運動などの脳機能異常を対象に、機能神経外科。ロボトミーの流れの先に定位脳手術があるわけではない。むしろ、議論されるべきは、定位脳手術を精神疾患に応用することの是非。片山医師は慎重論。どこかに異常があるから取り除けば、という考え方を問題視。

・ここでも局在論を否定。むしろ今は、広範な神経回路網の活動から全体として生み出されるのが脳の働き、という捉え方。治療も、そのバランスを取り戻してやるために、どこの働きを調整してやるか、という方向。

・生体としての有機的統合性そのものは脳がなくても維持される。「脳死」は、脳という臓器が死んでいる状態を生物としての死と取り違えている。

・片山医師にはラザロ兆候の目撃体験がある。単なる脊髄反射よりも複雑な動きだったが、脊髄にはもともと高度な働きが備わっているのではないか。脳の機能を喪ったために、それがより明確に現れたのでは。

・「意識不明」が「意識がない」とされることについて、個人的には「反応性では表せない意識があると思っています」(p.279)といい、その例として夢を挙げる。

・面白かったのは、ここ。

小松 脳から身体へというベクトルは倒錯したものであり、身体から脳へということですね。
片山 もちろん、生まれたときに決まっている基本構造はあるのでしょう。でも体がない限りは、私たちが持っているような知覚は発生しないと思います。感覚が意識のレヴェルの知覚になるには、体を使っていろいろな経験を積む必要があります。そういう意味では、体によって脳が作られていくと言ってよいでしょう。脳にある作り付けのパーツだけで知覚が発生するとは到底考えられません。(p.291)


さらに、例えば「痛い」という意識レベルの知覚には、家族との生活や社会との関係での経験から、文化的な意味も含まれてくるのではないか、とも。

……体を持っていてこそ、自己と世界を区別して経験できるわけですから。私たちは、その基礎の上に調整を加えながら、絶え間なく自己を世界に位置づけなおしている。そういう意味で調整だと申し上げたわけです。(p.296)

それらもろもろからすれば、脳は、体を使っての経験を重ね、家族と生活し社会で生きるなかで、どのように世界と関係するか、という何層にもなった相互作用の繰り返しによって、ネットワークを絶え間なく組み替え、それに各部位の働きも影響されつつ、全体としての脳の働きは揺らぎつつ常に組み替えられ続けているということなんだな、とspitzibaraは理解。

・動物にも空間の認識はあるが、人間はそこに時間同一性が加わる。過去の自分、現在の自分、未来の自分の同一性。そこに自己イメージや自己物語をもてる。

脳死を考えるにあたって、
「生物としての死」(これは破綻していることが明らか)
「人間としての死」(個人的な見解に任せ多様性を認めるしかない)
そこで考え出したのが「規範としての死」。

・人は誰かに生きていると認めてもらうことで唯一の自己を実現することができる。遠藤周作が友人の見舞いに行った帰りに見上げた病院の明かりに「日本では病院が協会の役割も果たすのだ」と。

……わが国の病院は、まだそんな役割を果たしています。そこにある他者との関係性は、相手が生きていると認める方向にしかありません。もともと、もう死んでいると認める方向にはなり得ないのです。ですから、もう死んでいると認めようという考え方は、わが国の病院に関する限り馴染まない。どうしても大きな抵抗を生むことになります。それが、率直な感情を逆なでする。それは避けられないことです。
(p.307)

・唯一の自己はもともと利己的なはずだが、それでは社会が成り立たないし、人間は一人では生きていけないから、利己的であることを押えてバランスをとるためのメカニズムとして人間には「共に生きよう」という気持が仕組まれているのではないか。「共に死のう」も共感かもしれないが、それでは社会が成り立たない。小松氏の言う「共鳴する~」も、「共に生きよう」という気持ちが前提では。