宮地尚子『傷を愛せるか』



記憶しておきたい箇所のメモのみ。


DV被害者は、配偶者から離れ、暴力から逃れられれば、それで幸せになれるというわけではない。被害者の自立とは、大きな損失の過程でもある。いままでの生活世界、人とのつながり、温かい家庭を築くという夢、子どもの教育、老後の人生設計、愛や親密性をはぐくむ自信、世界は安全だという基本的信頼感。それらがすべて失われる。

 それらの喪失を認め、受け入れることは、新たな生活に向かうために必要だが、けっしてたやすくはない。けれども、幸せを心から祈ってくれる「だれか」がいれば、被害者自身も幸せになりたいと思いつづける勇気、なれるかも知れないという希望を取り戻すことができる。
(p.46)


幸せになりたいと思いつづける勇気――。
なれるかもしれないという希望――。


ハンナ・アーレントが「再開の可能性への賭け」として語る、
復讐に対しての「赦し」と支配に対しての「約束」について書かれた下りで、

 復讐の代わりに「赦し」を、というのはわかりやすい。復讐とは過去のくりかえしであり、赦しは過去の呪縛からの解放になるからだ。では支配の代わりの「約束」とはどういうことなのか。わたしの勝手な解釈かもしれないが、支配もまた過去のくりかえしであり、過去の呪縛であり、強制であり、力ずくであり、一方的なものである。「約束」とはそれ自体が100パーセント守られる保証はなく、夢であり、祈りであり、希望であり、信じることである。「約束」は双方的な関係の中でのみ成り立つ。約束する側でなく、約束される側がそれを受け入れ、もう一度信じてみるという危険を冒すことによって、かろうじてそれは成り立つ。

「幸せになんてなれるはずがない」と思いこんでいた人、「幸せになってなってはいけない」と思いこんでいた人には、過去の呪縛から解き放たれるための言葉が必要になる。恐怖にすくんだ人が足を伸ばし、歩き始めるためには、未来を捕捉する言葉が必要になる。

 実際の命綱やガードレールがどんなに頼りなくても、人はなにかが、もしくはだれかが、自分の安全を守ろうとしてくれていると感じるときにのみ、人として生きられる。現実のもろさや危うさの中で、未来を捕捉することは実際にはできないからこそ、希望を分かち合うことによって未来への道筋を捕捉しようとする試み。予言。約束。願い。夢。

 明日、天気になあれ。みんな、幸せになあれ。そう思い、そうつぶやく。そう囁き、そう歌う。
(p.50-51)


感情労働という概念を作ったアーリー・ホックシールド
『管理される心――感情が商品になるとき』という著書での
航空会社の客室乗務員の分析について書かれた箇所で、

ホックシールド
表面的に役割を演じる「浅い演技」と
心からその役割になりきろうとする「深い演技」とに
分けていることを解説し、

 着陸態勢に向かって準備する乗務員達の顔は相変わらずにこやかだ。ふと「スマイル0円」というのを、医療現場でもやってみたらどうだろうと思いつく。医師の中にはこれまで、「診てやっている」という態度の人が少なくなかった。患者さんのほうが医師を怒らせないように気遣わねばならず、つまりは感情労働を強いられていたわけである。

……(中略)…… 医療面接技法という形で、医師も患者さんにたいする適切な態度が求められるようになってきた。少なくとも「浅い演技」の感情労働は、医師にまだまだ要求されてよい。そして、難しい技法を学ぶより「スマイル0円」のステッカーを貼る方が、ホスピタリティを身につけるには効果が高そうだ。
(p.92-93)


 日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズム新自由主義)が危険なのは、弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで、弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだとわたしは思う。そして医療をビジネスモデルで捉えるのが危険なのは、病いや傷を負った人の弱みに付けこむことほど簡単なことはないからである。

 では「悪貨は良貨を駆逐」してしまうのだろうか? 弱肉強食のルールに従って生きていくしかないのだろうか? そうではないと思う。弱さを抱えたまま生きていける世界を求めている人も多い。弱さそのものを尊いと思う人、愛しいと感じる人も多い。それもまた人間のもつ本姓の一つだと思う。そうでなければ、弱きものはすでにすべて淘汰されていたはずだ。希望をなくす必要はない。
(p.104)

後半は、ちょっと楽観的過ぎないかとは思うんだけど。


著者は米国に遊学中に生活拠点をNYに置き、
仕事の際に必要があればジャマイカ・プレインの同性愛カップルの家に身を寄せていた。

その体験から、

 人はみな、親や家族を選べない。産み落とされた人間関係の中で成長するしかない。けれども二十代、、三十代以降の人間の成長とは、自分なりの感性を磨き、波長の合う人たちとつながり、ソウル・メイトやソウル・ブラザー、ソウル・シスターとして関係をはぐくみあい、血縁も国籍も性的指向も抜きにしたソウル・ファミリーをつくっていくことなのかもしれないと思う。
(p.137)