ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ 1: 序章~第2章 (後)

前のエントリーの続きです。


そこで、前のエントリーの冒頭で書かれているように、
「障害とともに生きる人生についてのリアリティを十分かつ正確に認識した上で、
障害を持つ人々を意思決定の中心に置くために協力し合う」べく、
ウーレットは両者に対話を呼びかけるのだけれど、

その下りの最初に、ウーレットが
障害者がなぜ「怒りの話法」に頼らざるを得ないかという背景に理解を示している点が、
実はこの本の重要な論点の一つだと私は思っている。

たとえば、

……こうした障害学の視点に対する生命倫理学の側の主要な反応が、無視や念入りな却下、あるいは徹底的な拒絶でしかなかったことだった。
(p. 73 ゴチックは spitzibara)


……長年にわたって孤立感と疎外感を味わいながら生きてきた障害学者や障害者運動の活動家たちは、その声を聞いてもらうためには大声で叫んでこざるを得なかったのだし、そういうときでさえ彼らが受けるのはけっして歓迎ではなかったのだ。
(p. 75 ゴチックはspitzibara)


これは、私が親として
娘のいる施設での人権侵害に対して異議申し立ての行動を起こした際に、
施設側あるいは個々の医療職から受ける対応とまったく同じだし、


ウーレットは信頼関係の醸成こそが不可欠だと説いて
カプランを引用する。

信頼関係なしには、アウトカムに基く医療(outcome-based medicine)に陥るだけだ。……患者が医師のいうことを信用しないとき、そしてそれが予後と[患者が受ける]利益についてのエビデンスが欠如しているためではなく、医師が患者の権利擁護者であるとは患者が信じられないためであったり、医師が[患者に対して]……無神経な行動を取ったためであったりするならば、[両者の]信頼関係の予後は思わしくない……。信頼関係の予後が思わしくないときには、データに基づいて導かれる治療への期待も思わしくない。
(p.75)


ウーレットは、
信頼関係がないから患者や家族が自己防衛的に過剰医療を求める例を挙げているけれど、
その逆に、医療サイドが組織防衛的に過剰医療に走ることのほうがタチが悪い、と私は思う。

例えば、第6章のメアリーの事例は、
大した必要もない直腸の検査を、施設側が責任を問われないための自己防衛で
拒否する本人に強要しようとしたケースだし、

第7章のシーラ・ポーリオットの事例も
州が責任を問われないための自己防衛で、
すでに不可逆な終末期にある本人の苦痛(つまり最善の利益)を無視して
過剰な栄養と水分の補給を強要したケースだと捉えることができる。

だいたいにおいて、自分を守るための医療の判断をする医師は
過剰か不足のいずれかに傾きがちだというのは、私自身の個人的な経験則でもあって、

そういう傾向は、日本でも、
例えば、入院や入所時などの日本版POLST記入の強要もそうだし、
尊厳死」法制化の議論そのものが医師の免罪を狙ったものだと考えれば、
いずれも医療サイドの自己防衛を強化しようとする姿勢であって、

そういうことが果たして本当の意味で
患者との間に信頼関係を構築することに役立つのか、むしろ逆ではないのか、
という疑問が私にはずっとある。

なので、むしろ、
医療職や医療機関が身を守る最善の方法は、逆に、自分を守ろうとしないこと――。

そういう逆説を説いてみたいという気がしている。

それは、すなわち、常に目の前の患者の最善の利益を考えること、
意思決定が必要になる「点」よりも手前の日常の医療という「線」において、
信頼関係を作るための誠実な努力をすること、

そのためには、
患者本人をバラバラの個体と見なす医学の視点だけではなく、
その人が様々に複雑な関係性の中で固有のLIFEを送る一人の人であるという視点を持ち、
「その人のLIFEを支えるために医療に何ができるか」という
問題の捉え方をしてもらいたいなぁ、と私は望むし、

ウーレットがこの本で言っていることというのは、簡単に言ってしまえば、
そういう視点や問題意識を得るために、医療職や生命倫理学者は障害者から学べ、
ということなんじゃないだろうか。

私は親の立場として、
重症児者の親もまた生命倫理学からも障害者運動からも学ぶべきことがあるし、
医療職や生命倫理学者や障害者運動もまた、親からも学ぶべきことがあるんでは、と
いうことを、言ってみたい。

ウーレットが障害者の「怒りの話法」に
なぜこの人たちはこんなに怒ってしまうのか、「なぜ」という理解の目を向けたように、

対立している誰かと誰かが溝を埋める最初の第一歩は
「あいつらはいつもこうだ」という決め付けを「なぜ、あいつらはこうなんだろう」と
「なぜ」という問いへと転じることなのかもしれないと私は考えているのだけれど、

それは目下の私自身が親の立場から、
医療職に向かっても障害者自立生活運動の当事者や支援者に向かっても、
まずは声を大にして言いたいことだからでもある。

「親が無知だから、医師がやりたい医療をやらせようとしない」から
「なぜ親は医師がやりたい医療をやらせようとしないのだろう」へ。

「親は敵だ」から
「なぜ親は敵にならざるを得ないのだろう」へ。

「親が我が身かわいさで、支援者が思うように自立生活に協力しやがらない」から
「なぜ親は我が子の自立生活に消極的なのか」や
「なぜ、この親に支援者としての私は十分に信頼してもらえないのだろう」へと。

その「なぜ」という問いへの転換は、どちらにとっても
「自分たち医師こそが医学的正解を提案してやっているのに」や
「自分たち支援者が提案している自立生活こそが正しい道なのに」と
それぞれ自分こそが「唯一の正解」を知っているという立場に立って、
親を一方的にバカにして見下す姿勢を問い返すことだと思うから。

そして親もまた、「親だから自分が一番分かっている」という思い込みを、
生命倫理学や障害学から学ぶことを通じて、問い返すことによって、
親としての自分のあり方を問い返し、ウーレットがいうように、
「障害を持つ本人を意思決定の中心に置く」ということに
近づいていけるんじゃないだろうか。

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気になったことを2点、追記。

① 障害者運動はコミュニティを守っているのか?

ウーレットが
障害者コミュニティの主張について
全編を通じて繰り返し以下のような解説をすることに
私は違和感がある。

……障害学者や障害者運動の活動家は、ひとつの集団としての障害者たちを守ることを優先する。たとえ、そうした障害者のコミュニティにとっての利害が、障害をもった個々のメンバーの選択と相容れないような場合においても、前者を優先するのが彼らのやり方である。
(p. 22)


第2章でも、
生命倫理学が個々のケースで自律の尊重を重視してきたのに対して、
障害者運動は個々のメンバー一人ひとりの身に起こることよりも
コミュニティに対する虐待的な行為に対して抗議してきた、と述べたうえで、
以下のように書いている。

自立生活とそれによってもたらされる個人の自律は、障害者運動にとって二つの柱のうちの一つなのである。ただ、そのもう一つの柱は、優生学(優生思想)、隔離、施設への収容といった障害者への虐待的慣行からコミュニティのメンバーを守ることにある。
(p.56-7)


私はこの捉え方は、
生命倫理学との対比に引きずられ過ぎているんじゃないか、という気がする。

障害者運動は「コミュニティやそのメンバーを守ろうと」しているんじゃなくて、
「障害者差別を根深く織り込んだ社会構造の危うさを指摘・危惧している」んだと思う。

社会の差別構造を問題にしていく姿勢を
「個々の障害者よりもコミュニティを優先している」と捉えるのは
ちょっと違うと思う。

ちなみに、Not Dead Yetのドレイクがこの本について、刊行直後に、
「障害者運動の主張をまったく分かってない」とこっぴどく批判しているんだけれど、
具体的にどこがどのように、というところまではこの時には語っていない。


②  ウィロウブルック・スキャンダルの箇所に以下の記述がある。

……研究者たちは、それが公共善に役立つ科学的な発見をもたらすという根拠に基づいて、この研究を正当化しようとした。
(p. 36)


ウーレットはナイーブな人なので、
こういう姿勢を正してきたのが生命倫理学だというスタンスで
このあたりの解説を書いているんだけれど、

ある意味、生命倫理学には、むしろこうした姿勢をこそ
理論武装によって支援したり、見え難く誤魔化したりして
推進するツールとして機能してきた面だって、あるんじゃないのかな。

そうして時代はまた、とても露骨に、そこへと回帰し始めていることにも、
ウーレットは、まったく気づいていないように見える。


「マスへのベネフィット」vs「個へのリスク」の比較考量への回帰については ↓



この問題に関して昨日拾った、Carl Elliot の Hastings Center Reportのエッセイ、
”Whatever Happened to Human Experiments?"はこちら ↓
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/hast.531/full