ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 3: 第4、第6章 (前)

アシュリー事件と、
ろうの子どもたちへの人工内耳埋め込みをめぐるリー・ラーソンの息子たちの事件の
2つを事例研究とする第4章については、

特にアシュリー事件は、もういろいろ考えたり書いたりしてきたので省略して、
今後に向けて、以下の2箇所のみ引用しておくことに。

……結局は「医療介入が安全で効果的で、患者に利益をもたらしQOLを改善すると思われるかどうか」というコスト/利益分析になるのである。障害のない子どもなら、こうした医療介入の使い方は虐待とみなされるのではないかとの懸念は、医療による正当化論で一蹴されてしまう。
(p. 177)


……生命倫理学者らが医学・医療的な物の見方に[無反省に]従っていることによって、生命倫理学の分析にはギャップが生じている。…(中略)… 生命倫理学者が障害を医学的な問題と見なし続ける限り、「医学的な解決方法が最もふさわしいことになるだろう」。しかし困ったことに、医学的な解決方法が常に最もふさわしいとは限らない。
(p.178 引用箇所はサラ・ゲーリング

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第5章は都合により飛ばして、
第6章の「成年期」の事例研究は3つ。

1. メアリー

概要は以下。

NY州の当時48歳の女性。
幼時から知的障害があると誤解されて施設で暮らし、
30歳で知的障害がないことが判明し、文字盤でコミュニケーションをとれるように。
しかしケア資源の問題から、州の判断でグループホームに。

定期身体検査で勧められた腸の検査を本人が拒絶したところ、
GH施設長がそれに異議を唱え、州当局や医事法学の専門家を交えた会議での議論に。
本人は文字版で「侵害です」と強く訴えた。

最終的には家庭医の本人意思の尊重方針が議論をまとめる形で決着。


この事例をめぐるウーレットの議論は、
施設で暮らす人であっても医療を奪われないことを保障したNY州の規定を
「パターナリスティックな規則」と捉え、
その規則を適用されることがメアリーの自己決定権と対立する、
という問題の捉え方をしているのだけれど、

私は、この事例では、
規則そのものをパターナリスティックだと捉えるのは間違いだと思う。

「施設で暮らしている人だからといって受けられない医療があってはならない」
という趣旨の法律が保障しているのは
単に「医療アクセス」であり「医療を受ける権利」に過ぎない。

「だから医師に勧められた医療はすべて受けるべきだ」と
そこに過剰な読み込みをしたのは、明らかにGH施設長側の誤読であり、

私は、この事例の本質的な問題は、ルールそれ自体にあるのではなく、
誤読の背景にある、以下のような施設長の自己保身や施設防衛の姿勢だと思う。

 施設長としては、メンタル・ヘルス局(spizibara注:GHの運営母体)の施設の患者に提供されない医療があってはならないとする州規定を実行する責任がある、と考えた。実施責任は施設の責任者にある。彼はそのルールを、施設で暮らす人は勧められた検査をすべて受けなければならないと義務付けるものと解釈し、遵守しなければ自分が責任を問われ、懲罰の対象となると考えていたのである。
(p. 237)


同じ章のマシューズの事例でも、第7章のポーリオットの事例でも
私はこの点が気になっているのだけれど、このメアリーの事例でも、
施設長が自己保身や施設防衛を目的に判断すること自体に、
なによりも医療をめぐる判断の姿勢として誤っている、という大問題がある。

それなのに、メアリーの事例でもマシューズの事例でもポーリオットの事例でも
ウーレットはこの施設側の自己防衛的判断という問題には
まったく気づいていないように見える。

そこにもまたウーレットの
「専門家」の判断に対するナイーブな信頼がうかがわれる。

(この人、全体に、「一枚めくった裏側に潜んでいるもの」に対して、
まったく無防備なんじゃなかろうか)

でも、これは、とても大きな問題だと思うのは、
よく問題とされる終末期の過剰医療にも、
実はこれとまったく同じ問題が潜んでいると私は考えるから。

個々のケースで過剰医療を招いている判断の中には、
それを個々の患者の最善の利益だと判断したために続けられているというよりも、
「ヘタに訴えられたくないから」といった個々の医師や医療施設の自己防衛の判断によって、
(あるいは金銭的利益や介護の手間を省くなどの利益のためなども?)
患者の利益を無視して続けられているケースも混じっているのではないかと思われ、

(私の個人的な経験則からしても、医療が過剰になったり不足する際には
医師が患者個々の利益よりも自己防衛や施設防衛的な判断を優先している場合が
多いと感じています)

そうだとすると、それらのケースで問題なのは治療内容ではなく、
そうした判断が医療をめぐる意思決定の姿勢として根本的に間違っている、ということのはず。

簡単に言えば、
「医療は、医師や医療機関を守るための判断ではなく、
個々の患者の利益のための判断で決められるべき」という話。

ウーレットはこの事例では
ルールや施設長の姿勢がパターナリスティックだと批判しているけれど、

メアリーの事例でパターナリスティックだとして批判されるべきは、
「施設入所者にも受けられない医療があってはならない」というルールそのものではなく、
施設長が「だから受けさせるべきだ」と自己防衛的に過剰な読み込みをした際に、
それを自己決定能力のある成人に、本人意思を無視して押し付けられると考えたこと。

自己決定能力のある成人を
障害があってGHで暮らしているというだけで
自分では判断できない子どものように扱ったことについては
以下の障害者運動の指摘が当てはまると思う。

……パターナリズムは優越意識から始まる。つまり本人が何を考えていようと、どういう意思または文化や伝統を持っていようと、こうした『[ケアの]対象者』を私たち[専門家]がコントロールしなければならないし、それは可能だという考えである。
(p. 238-9: ジェームズ・チャールトン)


でも、そのパターナリズムは、
本人に代わって最善の利益を判断してあげるという本来のパターナリズムではなく、
もともと専門家の自己保身を患者の利益と言い繕っているだけのマヤカシなのであり、
実際にはパターナリズムですらない。

パターナリズムの顔をした欺瞞に他ならない。

あからさまに言ってしまえば、
メンタルヘルス局の担当者や医事法学者を交えた会議で
「本人の意思を尊重」というコンセンサスに至るという手続きを踏んで初めて
責任を問われることを回避できたと施設長は安堵した、というのがこの事例のお粗末な本質。

ただ、ウーレットがごくサラッと流しているこの事例は
実はとても深刻な問題を問いかけていると思う。

終末期の医療をめぐる意思決定の議論の中身が、日本でも実は、どこかで、
この施設長のような「責任を問われずに済むための手順整備」の議論と
化しているように思えること。

そして、それが医療の外の世界にはとても見え難くされていること。

さらに、医師その他の専門職から我々は、
尊厳死こそがあなたの利益ですよ」と言いくるめられていること。

でも、それはパターナリズムじゃない。

次のエントリーに続きます)