ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 3: 第4、第6章 (後)

前のエントリーからの続きです)


2. ラリー・マカフィーの事例

概要は以下。

ラリー・ジェイムズ・マカフィー1984年当時、ジョージア工科大の学生。
同年5月、バイク事故で首から下が麻痺し、人工呼吸器依存となる。

4年間施設を転々とした挙句に入れられたのは病院のICU
そこで3年が経過した1989年、弁護士を呼び、死にたいと意思表明する。
呼吸器を切ることとその際の鎮静の許可を裁判所に求めた。
家族も、評価した医師も、州の検察官も本人の意思を支持。

予審裁判所は
マカフィー憲法上のプライバシー権自由権、そして
それらに伴う医療拒否権は、州が本件の手続きにおいて有するいかなる利益よりも大きい」と判断。

最高裁も決定能力のある成人としてマカフィーが治療を拒否する権利を認め、
鎮静も「自分の医療をコントロールする権利に含まれる」として認めた。


ところが障害者コミュニティは、
この概要からは漏れ落ちている事実関係こそが問題なのだ、と指摘する。

それは、

・1986年に、マカフィーはアパートでの自立生活を実現し、
 社会復帰に向けて希望を持って暮らしていた。

・民間保険が尽きたために、その暮らしを維持できず、
 1987年にオハイオ州のナーシングホームに移らざるを得なくなり、
 昏睡状態の高齢男性との2人部屋で
「ほったらかしにされ、無視されて」暮らすしかなくなった。

・その後、アトランタに戻るも、受け入れ先が見つからず、
 病院のICUに何年も留め置かれることになった。
 彼が死にたいと弁護士を呼んだのは、このICUでのこと。

そういう事実関係を無視して死にたいという気持ちに共感する関係者について
ポール・ロングモアは、以下のように憤る。

……州は、耐えがたい生活の質(QOL)を生み出し[それを放置し]ておきながら、今度は介入してきて、障害者はQOLがあまりに低いから死への幇助を受けられるべきだと言う。
(p. 245)


障害者運動の主張を、ウーレットは以下のように取りまとめている。

障害のある人々への社会的支援とその背景にある状況を改善することによって、「耐えがたい」ものが耐えられるものへと――さらに豊かで実りあるものにすら――変わっていくのだという主張……
(p. 245)


実際、上記の訴訟で世の中に知られるようになったマカフィーは、
支援者たちと出会い、彼らの協力を得て
ICUから自立生活に向けた訓練を受けられる施設に移った。

そして、もう死にたいとは思わなくなった。

医療と生命倫理学が
医療をめぐる「選択」を真空状態にあるものとしてとらえるのに対して、

障害者運動は
障害に対する偏見に満ちた社会構造の一部としてとらえる
ウーレットが分析しているのは興味深い。

私は、前者の「真空状態」というのが、医療と生命倫理学が、
医療をめぐる意思決定を、その決定が必要となる「(時)点」における、
純粋に医学的判断の問題として捉えることを言っているように感じる。

それに対して、当事者や家族にとっては
医療をめぐる意思決定は、その「(時)点」の問題ではなく、
その「時点」までを、その固有の人がどのように生きてきたか、という
LIFE(生活、人生、生きること。上記の「事実関係」も含まれる)の問題。
一つの時点ではなく、長い時間の流れの中で捉えるべき問題。
医学的判断ではなく、LIFEをめぐる判断。

つまり、LIFEは医療よりも大きい。

もっとも、生命倫理学者の中にも、
こうした「社会的文脈」(p. 250)に目を向けられる人もいる。

ハワード・ブロディは、
マカフィー以前に同様の主張を認められて人工呼吸器を外して死んだ
デイヴィッド・リヴリンの事件で、判決に賛同した生命倫理学者として、
自分を振り返り、以下のように書いて謝罪している。

現在の私は、リヴリンの問題に関する自分の判断の根拠がいかに狭いものだったかを知り、恥ずかしく感じている。……(中略)……今から振り返れば、リヴリンは死ぬ必要はなかったのに死んでしまったのだし、彼の「権利」を尊重するのだと主張したわれわれは、本当は彼に死ぬことを認めるのではなく、彼がサービスを利用できるようにしろと要求すべきだったのだ。当時、誤った主張をした一人として、私は自分の視野の狭さをお詫びしたい。
(p. 251)


3.スコット・マシューズ

概要は以下。

1996年に28歳。いわゆる重症心身障害者。
NYアルバニー地区のGH在住。両親は頻繁に通ってきてケアに参加している。

ピューレ状の食事を取れていたが、誤嚥性肺炎や感染症で入退院を繰り返し、
体重が急激に落ちてきたため、担当医がチューブ栄養を提案するが、両親は拒否。

理由は、チューブ挿入による合併症の可能性と、
「他の人たちに食べさせてもらうと人と関われる」が、
それがなくなった時に「スコットの情緒面へのよくない影響」があることの2点。

そこでグループホームの責任者は、
「入所者がゆっくりと餓死していることなど受け入れがたく」、
脳性まひ団体のトップと一緒に、裁判所に胃ろう造設の許可を求めて提訴。

予審裁判所では両親は敗訴したが、
その後、上訴裁判所では逆転判決となる。

両親の主張の通りに口から食べさせる積極的な工夫によって
口から食べて生命を維持できる間は、両親の意思が尊重されるべき、との判断。
ただし慎重にモニターし、生命維持が危ぶまれれば再検討する条件付だった。

実際、スコットはその後10年間、口から食べて生きた。


この事例でも、GHの責任者が「うちで餓死してもらっては責任を問われかねないから困る」と
組織防衛的な判断をしたことが訴訟の背景にある。

その点で、(前)でまとめたメアリーの事例に通じていく構図があることを
まず指摘しておきたい。

次に、この事例が興味深いのは、
生命倫理学と障害運動が対立せず、同じ側に立っている点。

すなわち、この事例での対立は、
「医師、生命倫理学者、障害者運動 vs スコットの両親」という構図になっている。

医療サイドからは「自分達がやりたい医療に無知な親が抵抗する」と言われ、
あたかも「あたら助かる命を親が見捨てる」かのように見られ、

障害者運動からは「子どもの自立を邪魔立てする敵」と言われ、
「社会の偏見そのままに子どもを見殺しにし、時に我が手で殺す敵」と見なされる、
親の一人として、

私にとって、この本の中で最も興味深い事例研究2つのうちの一つが、
このマシューズの事例。

先に、ウーレットの分析を見ておくと、

 マシューズ事件では、障害者アドボケイトたちは裁判所に対して、医学的に必要な栄養チューブは入れるように求めるルールの適用を迫った。言い換えれば、アドボケイトたちは、担当医がそういうから、という理由でスコットに栄養チューブを入れる命令を求めたのである。障害学者たちの間には医学的視点に対する不信が浸透していることを考えると、ここでの医師たちへの信頼には驚かされる。同様に気がかりなのは、マシューズ事件を少なくとも事後的に振り返れば、栄養チューブを入れなければ死が差し迫っているとする医師たちの意見が明らかに間違いだったことである。
(p. 260)


……本章の事例研究が興味深いのは、……医療をめぐる意思決定の事例で「すべてに当てはまる唯一の正解」を見出すことがいかに難しいかも見えてくるからである。
(p. 258)


私自身は、この本を最初に読んでからずっと
スコットの事例が最も気にかかっている。

それは、同じ意思決定をいつか自分も迫られるであろうと予測されるから。

それだけにスコットの両親の判断を私自身はどう考えるか、と
ずっと自問してきたのだけれど、

ずっと両義的な思いの板ばさみのままで、
未だにすっきり答えが出せないでいる。

一つには、
重い障害のために一つずつ楽しみを奪われてきた我が子だからこそ、
せめて口から食べる楽しみは残しておいてやりたい、という思い。

いつかは「やむを得ない」日が来るとしても、ぎりぎりまでは
口から食べられることを大事にしてやりたい、という思い。

もう一つは、でも、それで食事のたびに我が子が苦しんでいるなら、
それもまた親にとっても耐えがたいこと。

だから、少なくともウーレットの解説で見る限り、
スコットの父親が「週末に持っていく苺パイを食べさせたい」とか
母親が「口から食べていてくれたら罪悪感を感じずに済む」と言って、
そのために毎食ごとに我が子に苦しみを強いるのは、
単なる親のエゴではないのか、と思えてならない。

裁判騒ぎから「10年生きた」とはいえ、その10年間が、
親が望む「あの手この手で食べさせる工夫」に苦しみながらの毎日だったとしたら、
それは本人にとってはむごいこととしか思えないし、

この事例では誰もが
「生命維持できるかどうか」と、自分が勝手に決めるQOLの2点だけを問題とし、
本人の苦痛を誰も問題にしていないと見えることが不思議。

ただ、私自身、何年か前に、海のムセがひどくなって、
いよいよ「決断を迫られる時が来たか」と緊張させられた事態で、

まずは海の食を全面的に見直してみようと思い立った母親に、
担当の看護職、介護職の人たちがイヤな顔をせずに付き合ってくださって、
OTさんによる摂食機能評価から、食形態と介助方法の見直しへと協力が得られたこと、
家での食の徹底見直しについても相談に乗ってもらいアドバイスがもらえたこと、

それによって、海がまた上手に食べられるようになり、
いったんは園ではミキサー粥にまで落としたものを、本人のハンストによる抵抗を経て、
また全粥にまで戻してもらえた体験は、とても大きな意味を持っている。
(家では柔らかいご飯を食べられるところまで戻りました)

それは、
答えは必ずしも白か黒かの二者択一ではないのかもしれない、という発見だった。

そもそも、その時にムセが増えていた原因の一つは、
園での一部スタッフの介助の方法にもあったのだし、

その一方で、
海がまた食べられるようになるまでのプロセスを共有できたことによって、
私は介護職、看護職の人たちと「共に悩みながら問題解決を共有した」パートナーになれた。

医療はどうしても「医学的解決方法をやるかやらないか」という白黒の問題設定になりがちだけれど、
そこに他の職種の視点や、生活の中での解決策の模索という視点が入ることによって、
問題設定を「他にやってみられることはないか」と組み替えることができるし、
それで初めて、本当の意味でのチーム・ケアが実現できるんじゃないだろうか。

それは大きく捉えれば、マカフィーの事例で
「死にたいという本人の意思を認めるか認めないか」という問題設定が
「生きたいと思えるよう支援する方法はないか」と組み替えられるべきだったことにも
通じていくのではないだろうか。

そして、その模索のヒントはやはり、
意思決定を「個体の問題」や「時点」の問題として捉えていたのでは見えてこない、
固有の人がそれまで生きてきた時間経過と、そこに積み重ねられてきた日常的なケアの中からしか、
見出せないものなのだろうと思う。

また2014年の重心学会シンポで麻生幸三郎先生が紹介された
「23年前の手術に懲りた家族が胃ろうを拒んでいる」ケースで、

食事のたびに本人は首を絞められるような苦しみを味わっているなら、
それは一体どうなんだろう、と私も家族の判断に疑問を持っていたのだけれど、

最近、麻生先生から、
その後、本人が食事の間に頻繁にげっぷをすることを覚えて、
苦しまずに口から食べておられる、誤嚥性肺炎もこの2年は起きていない、とお聞きし、

本人の力もさることながら、その過程にはやはり
直接処遇のスタッフの食事介助の際の接し方や支援が大きな力になったのではないかと
私としては想像していたりもする。



スコットがその後10年間、口から食べることができたことや、
海がまた口から上手に食べられるようになったことや、
本人がげっぷを身につけて思いがけない問題解決に至った事例を考えると、

ウーレットがいうように「医師の判断が間違っていた」というよりも
医療はそれほどに不確実性に満ちたものだ」ということなのだと思う。

だからこそ、その不確実性を、関係者みんなで受け止めつつ、

ある「時点」での医学的判断だけで即座に決めてしまおうとするのではなく、
「尽くすべき手は他に残っていないか」を様々な立場の関係者を含めたチームで
時間をかけて丁寧に検討する余地のある問題だということができるのではないか、

また、そうしたプロセスを丁寧に踏むことによって、
親と医療職や介護職の間で埋められる溝や、強化される信頼関係があり、
その中から思いがけず発見される本人の力もあるんじゃないか、という気がしている。

もちろん最終的には「やるかやらないか」の白か黒かを迫られる段階が来るにしても、
それまでのプロセスで上記のようにチームで問題を共有し、
共に悩み、共に考え、共に解決策を模索するということが積み重ねられていて初めて、
最終段階の「時点」での意思決定も、本当の意味でみんなで共有されるものになるだろうと思う。