『運命の子』著者、松永正訓先生に千葉大医学部同窓会がインタビュー

『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』小学館)と
著者の松永正訓先生については、これまでもいろいろエントリーを書いていますが、




このたび、千葉大学医学部ゐのはな同窓会のインタビューを受けられたとのこと。

上記リンクにもあるように
2014年にはハッフィントンポストのインタビューも受けておられますが、
なんといってもこのたびは医師に向けて発信されるインタビューであり、
冒頭では「特に研修医の方々に聞いてほしい」と聞き手の方が言われています。


少しスクロールすると、
【書籍】 1.会員著書の項目に、『運命の子 トリソミー』の書影とともに、
松永先生のインタビュー「障害新生児の生命倫理との闘い」があります。


前編「障害新生児を守るものは何か?」

とても印象的だったのは、
松永先生が生命倫理に興味を持つことになったいきさつが語れるくだり。

障害のある新生児が生まれた時に、
治療をして治してあげようとする医師と、障害を理由にそれを拒否する保護者との間に
対立が生じ、医師としては「子どもの命は親のものじゃない」と説得するのだけれど、
それが功を奏するとは限らない。

そうした体験を重ねるうち、
では自分だったらどうなのか、すぐに受容できるのか、と自問し、
今のような単純な生命倫理観のままでは親を説得することはできない、と気づいた。

医師は高い技術を身につけた技術者として養成されるが、
「医師は単なる技術者ではないし、技術者であってはならない」

弱い立場に立つ障害児者のいのちについて、どのように考えるのか、
医師には哲学が必要。

障害児者が生きるというのはどういうことか、
親はどのように子の障害を受容しているのか、
知らなければ。

「無知であることは罪です」


後編「新生児の生活の一部に医療がある」

昨年秋の生命倫理学会(会場が千葉大の亥の鼻キャンパスだった)で
安藤泰至先生と新城拓也先生とspitzibaraがやったシンポに、
松永先生は来てくださったのだけれど、

その時の発表でspitzibaraがお話した
「医療職にとっては『医療の中に生活がある』という感覚のようだけれど、
障害と共に生きる患者と家族にとっては
『生活の中に、あくまでもその一部として医療がある』」というのを

インタビュー後半の冒頭で触れてくださっている。
(松永先生、ありがとうございます)

後半でも、たくさんの大切なことを
コンパクトにまとめて分かりやすく話してくださっていて、

例えば、

障害受容について、
障害のある子どもが生まれた時に親が受け入れられるかどうかは
医師や看護師の態度次第というところがある。
 
医療職が生まれてきた子どもを「価値なきもの」と感じていると、
親も愛着形成がしにくくなってしまう。

「親亡き後」についても大事なことが語られている。
玉井真理子さんの言葉を引いて「おカネがかかる」「兄弟がイジメられる」
「親が死んだら障害児は生きていけない」はすべて神話に過ぎないし、
日本の福祉はそこまで貧困ではない。

「道は必ずある」から、
親も自ら社会との繋がりを断ったりしないように。

最後には、新型出生前遺伝子診断について、
言葉を選びながら、思い切って踏み込んだ発言をされています。

「あまりにも無知」という言葉が
強烈な印象で記憶に残り、

このあたり、松永先生の、
ある種の「覚悟」みたいなものをひしひしと感じました。


インタビュー全体を通して強く感じたのは、

松永先生はこうして、
医師の世界と、多くの医師が知らない障害児者の住む「社会」を
繋ぎ、橋渡ししてくださっているのだなぁ、ということ。

それはそのまま「医療」と「生活」の橋渡しでもある。

そして、
インタビュー全体を通じて、最も心にぐぐっと迫ってきたのは、
以下のようなことを言われた下りでした。

医療をめぐる判断は難しいが、医師が判断に迷った時、
大事なのは、どれだけ患者を尊重できるかだと思う。

患者を尊重できる医師が、
自分自身を尊重することができる。


松永先生もおっしゃっていますが、
医師に、ぜひ読んでもらいたい本であり、
医師に、ぜひとも聞いてもらいたいインタビューと思います。

もちろん、医師以外の方々にも。