PASネット『権利擁護で暮らしを支えるー地域をつないだネットワーク』から、成年後見人の「医療同意」を考えてみた

通例なら、このエントリーは「読んだもの」の書庫に入れるのですが、
後半がまさに「障害と医療」というか「障害者の人権と医療」を考えた内容になっているので、
今回は「障害と医療」の書庫に。




PASネットとは、
兵庫県西宮市で2001年から活動する(2003年法人化)権利擁護団体。
PASは、Protection and Advocacy Supportの略とのこと。

(ちなみに米国のPASは Protection and Advocacy System。
ウィロウ・ブルック・スキャンダルを受けて各州に設置が義務付けられた全国ネット。
連邦政府から資金が提供され、一定の調査権、介入権を持つ)

第1章を青葉園の清水明彦さんが書いている。

「私はここに居ます」一人ひとりが価値的存在として、そこにいる。それにもかかわらず、私たちは保護やあるいは厚生施設、そしてまたサービスの対象、要援護、さまざまな口実を使い、結局ここにいないものとしているのではないでしょうか。どんなに生きづらさを抱えていても、人は「私はここに居ます」と生きていこうとしている。そのことをみんなが認め合うことが、一人ひとりのその存在の価値を腹の底からお互いに認め合っていくのが、権利擁護支援ではないでしょうか。
(p. 38)


「権利擁護支援」って、文字通り解釈すると、
「権利擁護を支援すること」になるからヘンな言葉だと思っていたんだけれど、
なるほど、「権利擁護で支援すること」「権利擁護を通しての支援」ということだったんですね。

青葉園の自立生活実現第一号の「ちえさん」の事例が語れる中で、
特に、週一回の「本人中心支援会議」が続けられていること、重要。

実は15日に青葉園に見学に行ってきたところで、
この「本人中心支援会議」は現在も続いているとのこと。1時間から1時間半。


第2章はメインストリーム協会の玉木幸則さん(脳性まひの当事者)の
「地域自立生活を支える成年後見制度」

親が「この子のことは、自分が一番よく分かっている」という意識や
作業所のスタッフすら同様の意識になっていることがあるが、
本人を含めた本人中心の支援会議で「みんなが変わっていける」ことが重要と指摘。

玉木さんが知的障害のある男性の保佐人として、
自分はサンダル履きの普段着で、スーツを着た男性と一緒に家裁に面接に行った際、
「どちらが被保佐人ですか」と問われた話が面白い。

ウーレットが挙げていた、ビル・ピースの体験を思い出す。
息子が怪我をしたので、救急に運び込んだ際に、
車イスに乗っているピースは誰からも「患者の父親」とは見なされず、
「患者」と思いこまれてしまった、というエピソード。


第3章では、PASネット相談員の上田美智子さんが
終末期の人をサポートした事例を語っているなかで、
「本人意思」の不安定さが印象的。

医師と一緒に本人意思を確認すると、
「もう痛いのはいい。このままでいい」ということだったけれど、その後、

……延命治療については「痛いのは嫌だけど先生が必要といわれたらお任せするしかない」という答えが返ってきていました。生に対するあくなき欲求のあらわれと思いました。延命治療はお断りという答えが返ってくるかと思っていたので意外な気がしました。
(p.73)


PASネットでは、法律職と福祉職が組んで複数後見を基本にしている。

ところで、このケースで、ヘルパーさんから見た後見人の捉え方の変化が面白い。

 最初は、ただ単に、財産管理のできない方への金銭的な部分での介入をする人と思っていました。ですが、実際にお会いしてかかわるうちに、その人の残された人生に対して私たち訪問介護を含めて一緒に考え、悩み、笑い、泣く、その人を中心にした円の周りに位置する方々と思うようになりました。
(p. 79)


一つ飛んで、第5章の内田扶喜子さんの文章は、
89歳の男性への支援の事例。

この事例は、本人の地域での生活を「医療で支える」という姿勢の医師の存在が
とても大きいのだけれど、

内田さんの「支援」の捉え方も常に自らを問い直す姿勢で、とても深い。

 それにしても意思確認というのは本当に難しい作業です。選択肢がないなかで、支援者に都合の良い結論を無理やり引き出しているのではないかという反省と逡巡が、いつもあります。弱い立場の者に結論を迫るというのは、あきらめささえることと同義になってしまうときがあります。
(p. 101)


……世の中がうまく回るために後見人をつけるのではなく、その人の気持ちを汲み取り、とことん代弁する人ができるということの意味はとても大きいのです。
(p. 103)


……生活の中に、本人の意思が「立ち上がる」というような感覚で、支援をとらえられる時期があります。「立ち上がる」という表現は、重度心身障害者等が通所する青葉園(兵庫県西宮市)の清水さん(PASネットの理事でもある)が使いはじめた言葉で、私もよく口にしています。イエス、ノーという言葉や表現にはなりませんが、その人の主体が感得されるという感じでしょうか。さらにその主体を中心に支援が動き出す実感です。
(p. 103)


……後見人は、世間代表で本人にものをいう人ではなく、徹頭徹尾、本人の立場に立ちきる人……
(P. 104)


 社会的支援は、「認知症」「発達障害」「統合失調症」などの科学的・客観的評価によって決まります。外側からの視線によって、本人は、「対象者」になります。しかし私たちは、自分の内側からこの世のなかを見て、感じて生きていて、主体でしかありえないのです。私たちの内側には、希望や悲しみや喜びや後悔や未練がたくさんつまっていて、あとにも先にもない「自分の物語」を生きているのに……
(p.109)


……PASネットの支援では、「法的支援」「福祉的支援」に加えて、第三の軸に「本人支援」を位置づけています。弱音や愚痴のきき役になり、楽しいこと、うれしいことを伝え、個人的な気持ちややりとりできる相手……
(p. 110)


6,7,8章と飛んで、「終章」は
PASネットの理事長、上田晴男さんの「権利擁護と支援の思想」

上田氏が感じる「権利擁護」への違和感とは、

1.「財産管理」と受け止められていること。
  財産の保全が目的ではなく、本人らしい生活のために必要な財産の活用を図ること。

2.暮らしを守るということが「直接的な生命と安全の確保」と捉えられること。
  守るべきは、本人の生き方や暮らし方。

3.「生活管理」に偏ること。

そこで、上田氏の問題提起は、まず「何を『擁護』するのか」

ここで上田氏が
地域での自立生活は善で施設入所は悪といった単純な「カタチ」を超えて、
「暮らし」のありようを問題にしていることに、ちょっとなごむ。

自立生活であれ、施設での暮らしであれ、
自分の「思い」を表現し、小さなことであっても暮らしの中で実現していく自分らしい暮らし(p.179)が保障されているかが問題、と。

次の問題提起は「誰のための支援か」

支援者が主体となった支援になってはいないか。
家族が支援者である場合に、生活単位としての家族が一体と捉えられていないか。
その場合、支援者までが家族の要望や利益に引きずられていないか。

ここで、一部の自立生活運動の支援者は
自分たちの「正しさ」に胡坐をかいて親を見下し、
高みから評価・敵対する姿勢になるのが私は気に食わないんだけど、

こうした場合に必要とされるのは、本人と家族を対峙させるのではなく、本人の支援を基本としながらも、同時に家族の支援(家族全体だけでなく一人ひとりに支援が求められる場合もあります)を組み立てることです。
(p. 185)


最後の辺りでの鋭い指摘は、
緊急性の判断が甘いこと。

 支援に拒否的な方が医師を含めて日ごろからかかわっている人たちから見て生命の危険があると判断している状況になっているにもかかわらず「難しい」として手を出さない、はだしで町を徘徊している何らかの障害等のある方で明らかに支援を必要としている状況を多くの人が確認していながらも「まだ大丈夫」だからと対応しない、家族から年金や保護費等の搾取を受けて生活が困窮している状況に対して「様子を見る」として具体的な対応を行わない、こうした信じられない状況が決して少なくないようです。
(p. 187)


支援における緊急性とは救命救急ではなく、
リスクが高くなっている状況への対応と問題解決に向けた介入。そのタイミング。


             =====


とても大切なことがたくさん書かれていて、大いに共感した。

医療職、福祉職、法律職などの職種を問わず、
「支援」に関わる専門家に読んでもらいたいし、

私たち障害のある人の親や家族も
こういうものを読み、自分の親や家族としてのあり方を問い直すべきなのだなぁ、と思う。

ただ、
アシュリー事件からずっと医療をめぐる意思決定の問題を考えてきた者としては、
そこはかとない“すれ違い”感がずっとあった。

ここで描かれているのは、
まさにタイトルにある「暮らしを支える」ための権利擁護はいかにあるべきか、
地域生活のセーフガードとしての権利擁護という支援のあり方を考える話なのだな、と
途中で気づき、そのように捉えなおしてから読んだのだけど、

それにしても、ここには
権利擁護支援者と協力関係にある医師しか出てこないなぁ、というところが、
そこはかとなく引っかかっていて、

そうこうするうち、
3月23日に
成年後見制度の利用の促進に関する法律案衆議院を通り、

その日に某MLで
ビデオ「成年後見制度は高齢者の人権を守れるか」を教えてもらって、
その“すれ違い”感の拠って来るあたりが掴めた気がする。

こうして成年後見人に「医療同意」権を付与しようという動きが出てきている今、

「権利擁護」が
「医療が障害者の人権を侵害してきた歴史」や、
いまなおパターナリズム権威主義が根深い「医療の文化」に対して無防備なまま、
医療を「生活を共に支えるパートナー」と捉え、医療と「良好な協力関係」を目指していたら、

それは、ちょっと恐いんじゃないかな、と。

ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』を読んでくださった医療職の中から
「米国ではあんなに激しい対立があるんですね。日本とは違いますね」という
感想をいただくことがあるのだけれど、

日本では本当にその対立はないのか????
と、私はそのたびに強烈な違和感で絶句する。

日本の障害者コミュニティの中にも
医療や生命倫理学の障害に対するまなざしに、同様の批判的な捉え方はあると思う。

医療においてこそ障害者への差別と権利侵害が行われてきたと、
事実をきちんと押さえ、しっかり見据えている視点もあると思う。

ただ、それが米国ほど大きな声になって
社会に届いたり認識されていないだけなんじゃないか。

ウーレットが米国の障害者運動の「怒りの話法」の背景に
声をあげてもあげても黙殺され、相手にされずにきた体験の蓄積と、
それによる不信と苛立ちの蓄積を看破したように、

日本では、医療やアカデミズムの世界の権威が米国よりも大きく、
米国以上に当事者の声を取り合わなかったり、黙殺し続けているために、
「怒りの話法」どころか、「きちんと対立する」ことすらできないところに
追いやられているだけなんじゃないか。

私はそんな気がしている。

けれど、そんな日本でも
年齢や病名やQOLを指標に、コスト削減目的まであからさまに説きながら、
それでいて英米のような公の議論の広がりにはならないまま、
医療で命を線引きしようとする「無益な治療」論はどんどん露骨になっている。

そんな中、
成年後見人の「医療同意」に期待されているのは、実際のところ、
医療職の判断による治療中止への免責としてのシャンシャン手続きではないのか?

そういう今、
「権利擁護」にはいったいどこまで医療の世界と対峙する覚悟があるのかが
本当は問われているんじゃないのか?

それは、少なくとも医療をめぐる意思決定に関しては、
医療と障害者の人権という問題において「きちんと対立点を明らかにする」という作業が
日本では「権利擁護」の第一歩として、まず行われなければならない、ということなんじゃないか。

結局のところ、日本では医療における人権侵害の歴史がきちんと総括されていない、
ということに尽きるのかもしれないし、

日本にも「権利擁護支援」なるものが根付いたとして、
そこで成年後見人に医療同意権が付与されるとしたら、

その総括を外しては、
「障害者の権利擁護」は土台が成り立たないんじゃないか。

ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』を読んで以来、
私には、ずっと、そんな気がしている。

それは、
アシュリー事件や「無益な治療」事件で米国のPASが果たしているような役割を
日本では誰がどのように担い得るのか、という問題でもあると思う。

個々の生活を支える権利擁支援という役割を超えて、
障害者への人権侵害に対して、一定の調査・介入権を持つ、
Watch dog・監視システムとしてのProtection and Advocacy Systemが
日本でも必要なんじゃないんだろうか。