NZのテレビ番組が“成長抑制療法”を特集

NZのテレビ番組 Datelineが
成長抑制療法“Growth Attenuation Therapy”を特集する模様。

2つの事例が紹介されるようです。

Kahn Paisley君(12歳)。

すでに体重が32キロあり、
自然な成長すれば最終的な身長は1.8メートルになるだろう、と医師は予測。

それではシングル・マザーの母親Suziさんにはケアできなくなる、と決断したという。

「息子は飲み込むことも、食べることもできません。自分では全然なにもできないんです。
……たぶんNZでこの歳まで生きている最重度の子どもじゃないかと思います」

「そんなに大きくなったら、ソファで抱いててやることができなくなります。
息子と私は1日の中でそうやって過ごす時間が多いし、
それが息子のQOLと幸せの源なのに。あの子は抱っこしてもらうのが大好きなの」

Daryl-Annさん(9歳)。

Janine BoltonさんとパートナーのRob Fehsenfeldさんは
この先、Daryl-Annさんが成長しても自分たちでケアし続けたいと考えている。

今は彼女が好きな水泳やトランポリンをやらせてあげられるけど、
成長に伴ってやらせてやれなくなる。

リフトなどの機械や用具は親子の間に介在させたくない。

「背が伸びれば、それだけしてもらえることが減り、できることが減ってしまいます」

4年前に決断したが、相談されたBen Wheeler医師は最初は乗り気ではなかった。

“I was shocked, I said it sounds pretty crazy to me, I don’t want to be involved in that,” says paediatric endocrinologist Dr Ben Wheeler as he describes his initial reaction.

“It became more and more clear to me that this wasn’t a black and white issue at all… they spoke multiple times of the feeling that she was really their baby, and sort of a permanent baby.”

ショックを受けました。
ちょっとクレイジーに聞こえる、関わりたくない、と言いました。

少しずつ、これは白黒がはっきりつかない問題なのだということが分かってきて……
お2人から、Daryl-Annさんが自分たちには大事なベビーなんだ、
ある意味で永遠の赤ちゃんなんだ、という気持ちを繰り返し聞きましたから。


結局、同医師は治療することに同意し、
倫理学者の同意も得た(倫理委員会を通したということと思われます)が、
豪ではまだ“成長抑制療法”の事例は報告がなく、すべきではないと考える人もいた。

南オーストラリア上院で Dignity for Disabilityを代表する(妙な表現です)Kelly Vincent氏は、

「ひどいと思いました。
自分たちの生活の便宜のためにこんな極端な方法までとるのか、と」

これは強制治療であり、医療上の必要がある時以外に使うべきではない、と思う。

議会の討論でも次のように発言した。

障害があろうとなかろうと、身体的、情緒的、知的にも
自分のポテンシャルいっぱい成長していくことは子どもたちの権利です.


Suziさんはそれに応えて、

私たち親子にとっては、これはQOLの問題なんです。
私の便宜じゃなくて。

……私は息子の生活ができるかぎりよいものになるよう、
自分にできることはみんなやっているんです。


記事の末尾は以下のように問いかけている。

果たしてこれは愛の行いなのか、あるいは利益の相反なのか?


Growing Pains
SBS, June 21, 2016


まず思うのは、

記事文末の問い、そこは2者択一の「AかBか?」ではなく、

親から見れば「愛の行い」であるものが、
そこに親と子の利益の相反、権利の相克を孕んでいる、ということなんじゃないか、と。

それから、Suziさんが
自分が直接体験できる範囲だけを見て、
「息子はNZでこの年まで生きている最重度」と言っていることにも疑問を感じます。

Kahnくんは、写真で見る限り、人工呼吸器をつけていないようなので、

それはNZでは人工呼吸器をつけているような重症児者はもはやいないという事態なのか、
それとも実際はいるんだけれど、Suziさんがそういう子どもたちの存在を認識せずに言っているのか。

「親にとっては、いつだって我が子が世界で一番重度」というのは普遍的な真理、というところが
あるようには思いますが、それは感覚的にそうならざるを得ないということであって、
知識としては知ることも認識することもできるはず。

Suziさんのこの発言には、どこか、
”アシュリー療法”の論理が優生思想や「無益な治療」論に通じていることを
感じさせる不穏なものが含まれているような気がする。