ボイタ法をめぐる読書メモ 2: 杉本・立岩・熊谷

(前のエントリーからの続きです)


内面化

今回、『リハビリの夜』で私が興味深かったのは、
「まなざす側」のまなざしを著者自身が「内面化してくことになった」という事実。

……私が長年受けてきたリハビリでは、まず「健常な動き」を手にするという規範的な運動目標が立てられ、トレーナーはトレイニーの動きがその目標に沿っているかどうかを、一方的にまなざし続けた。そして、私の動きを監視するようなトレイナーのまなざしを、私自身も内面化していくことになった。
(p. 150)


障害児の母親もまた、子どもをつれてリハビリや診察に通いながら
専門職が母親への「指導」と「教育」に潜ませる
「優秀な療育機能であれ」というメッセージによって
それを規範的モデルとして内面化していったと思うし、

それはまた、障害児の母や介護者が
世間サマが自分たちが見たいがゆえに勝手に描き続ける
「我が子のために、なにをも厭わずに献身する強く優しい母(妻・家族)」や
「愛さえあれば、どんな苦しい生活だって笑顔で耐えられる」という
生身の人間には不可能な「障害児の母の美しい母性愛」や「家族愛」の物語を
いつの間にか内面化しては、苦しいと感じる自分を責めながら、
よけいにがんばるしかないところへと自分を追い詰めていくこと、

そうして苦しみを訴える声を奪われ、
口を封じられてきたことにも通じていく。

「内面化」の問題は、とても根深いのだと思う。


《ほどきつつ拾いあう関係》

熊谷医師が《なまざし/まなざされる関係》の対極においているのが
《ほどきつつ拾いあう関係》。

たとえば研修1年目の病院では「裁き」や「教育」のまなざしを送られていたが、
2年目の病院では「助けてくれる?」「助けようか?」といった
「拾い、拾われる」融和的なまなざしがあって、その協応構造の中で
著者の障害を前提とした著者自身の医療行為の遂行方法が見出されていった、
というエピソードに続いて、著者は以下のように書いている。

 かつて「健常な動き」という運動目標をめぐって《まなざし/まなざされる関係》に置かれたリハビリの現場では、私はついに「私の動き」というものを手に入れることができなかった。

 しかし一人暮らしや2年目の職場では、最終的に到達すべき運動目標についてのビジョンを誰も持たぬまま、ただ外界との《ほどきつつ拾い合う関係》に身をゆだねて試行錯誤することで、徐々に身体外協応構造が立ち上がり、周囲によって拾われ意味を与えられる「私の運動」ができあがっていった。
(p. 185)



《加害/被害関係》

しかし、二者の協応関係がうまくまわらなくなることがある。
そういう場合について書きつつ、

……二者間の協応構造が外れた際にどちらが我がどちら側に同化を迫るのか、というところに、二者関係の背後にある非対称な権力構造が現出しているのだ。これはそのまま、どちらかが加害者でどちらが被害者かを決定する動因でもある。
(p. 197-8)



「発達」

 私のような少数派の身体の持ち主が生き延びられるのは、人間というものにさまざまなつながり方の可能性があるからだと言っていい。実際、「健常な動き」を取り込むリハビリに失敗した私は、いったん多数派の群れからはぐれたが、その後、電動車いすや介助者、補助者とのあいだに新しいつながりを組み立てることで、つながりを回復していった。
(p. 229)

 私と他者とのほどきつつ拾い合うような関わりではなく、単体で切り離された私の運動のみを問題化して、正常な発達のシナリオをなぞらせるようなリハビリの過ちは、そのようなモノや人や自己身体を含めた、他者の存在を軽視したところにあると言えるだろう。

 解放と凍結の反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての世界の意味が立ち現れる。そして、他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。
(p. 232-3)



        =====

ボイタ法やリハビリからは外れるのですが、
現代思想』の杉本医師のインタビューから、
どうしても、ここは抜いておきたい、という
「今の医療の方向性」に関するお2人の発言を、以下に。

立岩: (前略) 
倫理学は本来は根本の正邪というか正誤を論じるものであるのに、一番ベースの部分は決まったか決まったことにしているかにして、マニュアルを作ったり手続き化したりする方向の仕事を自らの仕事にし、他方、自分たちがやっていることこれからやることを後ろめたくなくよいことだと思いたい医学会がうまい具合に組み合わさって、スッキリしたがっているという感じが僕にはします。

杉本: その通りだと思います。新生児のABCDランク付けでも、医者と看護師とケースワーカーというすべて病院内のメンバーでランク付けをするわけです。外の意見は入らない。そして外の意見と言っても誰を呼ぶかということもある。イエスマンを呼べばそれはそれで済むわけです。あらかじめ決めておいてOKを出していくという流れが出てきているのはすごく感じます。

(中略)

……終末期医療の在り方に警察が入れるものではないようにしなければいけないとは思うけれど、でも基本的に、物を言えないとか、弱者である場合の人を支える制度でないと、それは制度ではないですよね。強いほうが決まりを作って終わらせようとすることに対しては、どうしたって抗う。
(p. 81)